宝永3年(1706)父重政の跡をついで年若くして惣庄屋となった重行でしたが、その職にあること8年、驕にふけって施政をなおざりにしたとの理由により、正徳4年(1714)に捕らえられ、翌正徳5年(1715)に処刑されました。


 井手家4代の跡を受けて、古閑家が惣庄屋となり3代目で古閑家は惣庄屋の役を免ぜられました。5代目惣庄屋重元は、新田の開発や林業に尽くし、6代目の重政は新町造りに尽くしました。7代目の重行が、ほんとうに驕にふけって施政をなおざりにしたのか、ぼくの師匠の井上清一先生は疑問を抱かれています。先生は、むしろ重行が庶民の味方を行い年貢の立て替えなどを行ったことが、藩の中枢から見れば出過ぎたことを行ったと云うことで罰を受けたのではないか推理されます。ぼくには、推理を行うほどの知識さえ無く今だ薮の中です。


 申し遅れましたが、5代目惣庄屋重元の時代に、以前にも何度も紹介しました「重盛さん参り」の風習ができたと云います。これは、現在で云うところの合コンです。矢部手永内はもちろん、隣接手永からも若い独身の男女が、内大臣の中腹にある小松神社に、その例大祭のときに参拝し出会うというイベントです。なんでこれを「重盛さん参り」と称するかと云えば、小松神社は、平清盛の長男小松内大臣重盛公をご祭神とするからです。内大臣という地名もそこから生まれました。


  「矢部男に砥用女」あるいは「砥用男に矢部女」という言葉もこの重盛さん参りから生まれた言葉だと云います。重元は、元々杣師なので遺伝学にも長けていたのでしょうね。矢部みたいな谷間間での近親婚は遺伝学的にもよくないので、より遠い種を求めて交流を行ったのだと思われます。小松神社近くには、現在でも「一夜畑」と云う地名も残っています。ここで結ばれた男女は、翌年、道中杉の挿し穂をしながら小松神社へお礼参りに行くしきたりになっていたそうです。そうして、造林された樹齢300年を越える杉の巨木が、今も神社の近くに残っています。

2021年11月24日更新