御小屋 


 嘉永5年(1852)12月、通潤橋工事着工と同時に現場監督小屋として造られた。9mに7.2mで8畳2間と中間4畳、炊事場からなり、現在資料館として利用されている。


 この「御小屋」と呼ばれるものは、布田神社同様中島福良井手の島木椛の木にもあった。椛の木の「御小屋」は、昭和40年代頃まで民家として使用されており現在は廃屋となっている。


 さて、通潤橋の御小屋の前には、当時「中島帳場」と呼ばれる場所があった。「中島帳場」は、中島地区から通潤橋架橋工事のために駆けつけた人々の点呼確認をした場所。


 なぜ、中島地区の人だけがここで特別に点呼確認されたのか。当時、緑川の河川改修などの工事のために郡内から夫役が集められた。御船、嘉島、甲佐や益城は緑川に近いので自宅から現場まで通うこともできる。しかし、矢部手永は下方の緑川に一番遠い場所なので1日の夫役に出るのに前後3日を要す。そのために、現場に一番近い中島地区の人々が矢部手永を代表して夫役に出された。


 よって、中島地区の人々は夫役慣れしており、時には代弁で出席を誤魔化すこともあったと言われている。そのため、中島地区の人々だけはこの中島帳場で他の地区の人とは別に点呼確認をしたと言われている。また、布田翁は、毎朝の作業に遅れた者に対しては、白糸の相藤寺にある地の堅い原野を懲罰として開墾させ、これを「朝寝開き」と呼んでいる。

2017年07月03日更新