道の駅「通潤橋」の道上にあり、阿蘇大宮司惟豊公の墓だと伝えられている。
 阿蘇大宮司惟豊公は、明応2年(1493)大宮司惟憲の二男として生まれた。兄惟長が永正2年(1505)に菊池家を継ぎ菊池武経と改名のうえ肥後の守護となったので、惟豊公が兄から大宮司職を譲り受けた。ところが、兄惟長は菊池の重臣との折り合いが悪く、永正8年(1511)菊池家を追われた。惟長は、惟豊公を攻め「浜の館」に入り子惟前を大宮司とした。
 惟豊公は一旦日向に逃れるが,永正11年(1514)に惟前を破り,矢部を回復した。この時に力となったのが,親宣・親直(宗運)父子。惟豊公は、天文18年(1549)には後奈良天皇の内裏(皇居)の修理費一万疋を献金 し従二位に叙せられた。
 惟豊公の時代に阿蘇氏の支配が、阿蘇(小国を含む)、益城郡、宇土郡、詫摩郡に及んだ。その他に,後醍醐天皇の綸旨により,豊後国大佐井,筑後下座郡の地頭職も与えられていた。惟豊公は、阿蘇家の全盛期の永禄2年(1559)没して御廟に葬られた。平成20年には試掘がなされた。
御廟2
2017年06月26日更新