今月6日7日は、山都町最大の祭りである八朔祭が催されました。山都町の八朔祭は大造り物の引き廻しで有名です。今回は、その八朔祭の歴史について紹介させて頂きます。

  まずは、「八朔」の意味について考えてみたいと思います。「八朔」とは八月朔日(さくじつ)のことで、朔日とは一日(ついたち)ことです。よって、八朔とは、旧暦八月一日のことを云います。


 この時期、稲の穂が出揃って実りの兆しを見せ始めるので、農民たちは、たくさん実りがあるように田の神に祈る行事をします。
  また、このころ暦では、二百十日に当たり台風が多発する時期であるため、稲が台風の被害にあわないように、風の神を鎮める行事をします。
  矢部地方では八朔の日に、「カケグリ」と云う竹の入れ物に御神酒を入れて一枚一枚の水田なら水口、畑なら畑の入...り口に御神酒を注いでこれらの祈願をします。そのときに、願主も神様と一緒に御神酒を頂きます。この行事を「作(朔)参り」とか「作(朔)廻り」と称しています。
  矢部地方には天文年間頃(1532~1555)から、この地方に伝わっていた豊年地踊りや笹踊りの人たちが、農家の日頃の労苦を慰め感謝するために催していた祭がありました。


  一方、7月24日はお地蔵さんの縁日です。縁日というのは、ある神仏に特定の由緒ある日で、この日に参詣すれば特に御利益があると信じられています。毎月の5日は水天宮、10日は金比羅さん、18日は観音さん、28日はお不動さん、そして24日はお地蔵さんの縁日だとされています。
  このお地蔵さんの縁日である7月24日には、造り物が奉納されていました。今でも、馬見原の火伏地蔵祭や宇土の地蔵祭などでは造り物が奉納されます。矢部地方の中心街である浜町でも、地蔵祭には造り物が奉納されていたと思われますが、いつの頃からかこれが八朔と合体し、八朔+造り物に統一されたものと思われます。


  今年で八朔祭は256年を迎えます。これを逆算すると宝暦8年(1758)が現在の姿の八朔祭の始期となります。それでは、256年前の宝暦8年に何が起こったのかを探りたいと思います。

  延享4年(1747)8月5日、第5代藩主細川宗孝は江戸城内で板倉修理に斬られて亡くなりました。宗孝には何の落ち度もなく修理が人違いで刃傷に及んだものでした。宗孝には子がなかったので部屋住の弟である重賢がこれを相続し第6代藩主となりました。ちなみに、重賢を第8代とする記述も数多く見受けられますが、細川家初代藤孝(幽斎)から数えれば第8代となり、肥後入国を果たした肥後細川家初代忠利から数えれば第6代となります。

  重賢は、堀平太左衛門を大奉行に登用し後に「宝暦の改革」と呼ばれる藩政改革に着手しました。その主な事業は、①財政再建、②行政機構の改革、③刑法の改革、④藩校時習館の創設と学問の振興、⑤地引合による年貢見直し、⑥産業の奨励など多岐にわたります。

  熊本藩は54万石で、大名のなかでは上位6、7番目の大大名でありますが、享保(1716~1736)年間には天下に鳴り響くほどの困窮ぶりで家臣の給与は段々減らされ、享保15年には百石に付15石の手取しか給付されなかったと云います。上方では、サビ止めには「細川」と唱えれば効くと云われました。その心は、細川には金っ気がないのでサビない。

  そんな窮乏した財政を立て直すために行われたのが先に紹介しました宝暦の改革です。寛永10年代(1632~1642)の検地帳では、時代の経過と共に土地の実態と合わなくなりました。そこで改革の一環としてなされたのが「地引合(じひきあわせ)」です。農民は検地を嫌います。そこで藩は、検地という言葉を使わずに「地引合」と称しました。当初宝暦2年から実施の予定でしたが、享保以来毎年不作凶作で困窮している農民は、御免上がり(増税)を恐れ大反対し、惣庄屋や郡代らも一揆の恐れありとしてこれに反対しましたので藩は実施を延期していました。

そんななか藩は、宝暦7年(1757)7月、矢部手永惣庄屋矢部忠兵衛公豊に対して五穀豊穣の祈願祭を執り行うよう指示しました。そのときの出来事を地元に残る古文書は次のように記しています。


  宝暦七年丁丑、御国中一手永限於大社五穀成熟御祈祷仰付ラレ、矢部ハ小一領社・中島ハ男成社於テ三日三夜宛両社ニテ男成伊豫執行ス、成就ノ日ニ御郡代椋梨角平衛社参アリ於神前金子百疋ヲ奉納アル、庄屋中列参御酒頂戴アリ、男成伊豫御札御郡代目前ニテ庄屋中ニ一枚宛相渡ス(郷党歴代拾穂記)


 併せて、島原の乱以来禁止されていた農民の集合禁令を解き、歌舞音曲停止も解かれ盛大な祭典が催されました。その日は、古来からの風習であった農民達の「作参り」の日で、一杯機嫌の人達も加わり、豊年地踊りや笹踊りの連中で夜通し賑わったと云います。

  右の豊作祈願祭の御利益なのか、その年は豊年満作でした。翌宝暦8年6月になると浜町の若者達がうずうずし始めました。当時矢部手永の浜町には、本町(現在の仲町)と新町とがあり、本町の若衆のことを「本若」、新町の若衆のことを「新若」と呼んでいました。本若、新若達は、「今年も盛大な祭をやろう」と云うことに決定し、渋る町年寄を引き出し前年は藩庁からのお達しで祭典を執行したが、今年は町でやる事にして、惣庄屋の許しを得ました。そして、豊作祈願祭だから、氏神様より作の神様である稲荷さんが良かろうと云うことで、町衆の大店の商人達が信仰しているお稲荷さんの神輿が担ぎ出され前年よりもさらに盛大な祭となりました。


  前年の宝暦7年丁丑は8月1日でした。1日は朔日なので、祭の名称は「八朔祭」と決められました。この藩庁のお達しで執行された宝暦7年ではなく、民衆が主催した宝暦8年を八朔祭の起源としています。この事は、八朔祭の特徴をよく現しています。

  すなわち、八朔なので、旧暦の8月1日に行うのが普通の祭の姿なのですが、矢部の八朔祭は民衆が行う祭りなので楽しい祭の工夫がされています。その一つが、旧暦の8月1日には関係のない9月の第1土日曜日に祭が行われていることです。その方が、人が集まりやすいと云った庶民側の都合で祭日を決めています。

また矢部の八朔祭の特徴としては、 
ⅰ 山野に自生する植物を材料にした巨大な造り物。
ⅱ 世相を風刺し、政治を皮肉り、あるいは庶民の願望などを上品な洒落をまじえた表現を行う。
ⅲ にぎやかな八朔囃子にのり、造り物の意味やねらいにかなった仮装をした勢子達が街から街へと造り物を引き回す。
などが挙げられますが、これらも民衆の祭としての工夫の現れです。

さて、2年続けて祭に浮かれて気が緩んだ隙に藩は、ここ矢部手永においても宝暦8年秋から地引合が断行されました。そして、明和8年まで掛かって地引合は行われ、約700町歩の隠し田等を摘発しました。翌明和9年、実は明和は8年までしかなく安永元年になりますが、地引合の成果に基づく課税がなされました。人々はこの年のことを「迷惑の年(明和9年(めいわくのとし))」と呼んだそうです。


  垣塚文兵衛という細川藩の学者がいます。この人が次のようなことを書き残しています。


 宝暦8年、地引合ということ始まり、明和の中年に終わる。これにて免方の法、改まりて細密詳悉尽くさざる無し。民間の余沢、この時に渇す。安永3年に免方潤色ということあり、劔法また改まりて、民食従って耗す。


 「 免方の法」 というのは税法のことです。その税法が改正となって、「細密詳悉」小さいところまで悉くという意味です。「尽くさざるは無し」こぼれたところがない。「民間の余沢」と云うのは、今まで作っていた田んぼは畝延びしておりますから、広がって1反2~3畝はあったわけですね。それを従来はいわゆる台帳面積である1反で課税されていましたので、税を納めていても余裕がありました。それが「地引合」の結果、畝延び分まで課税対象としたので「この時に渇す」と云うことになりました。


  また安永3年(1774)に税の取り方が変わりこれによって民の食糧が無くなったと書いてあります。だから、「迷惑の年」と云われたことがよくわかります。

  藩は、手永に対して五穀豊穣の祈願祭をさせて、そして祭が見事に成功し民百姓が安心しきっている時に、今までやれなかった宝暦の検地である「地引合」をやってのけました。宝暦の改革は、在町である浜町に於ける購買力を衰退させました。その一方では、八朔祭を誕生させ、新しい産業である養蚕や紡績を起こしました。その後、浜町の商人達は外貨獲得のためにこれらの特産品を持って京阪神方面との貿易へと乗り出します。


 最後に備中岡山藩の学者古川古松軒が見た宝暦の改革を「西遊雑記」の中から紹介してこの稿を終わります。


  阿蘇郡にて今二万八千石の地と雖も、東西凡そ十里余、広大也と雖も山ばかりにて原野も数多く、笹倉等という原は武蔵野原と称せしはかかるならんと思うばかりにして、広々とせしところなり。土人の物語には開田せば阿蘇郡にても十四万石も出かすべき平地あるところながら、人の無き故に古田も年々に荒れ果てたと言いしなり。近年打ち続く凶年にて、餓死せる者も数多かりしと言う。いかにも事実に見え、此処彼処に住み捨てし空き家もありしなり。他国の評判には、当国の上は賢君にして経済役堀平太左衛門といえるは良臣のように聞き侍りしに、阿蘇郡の模様民家数人飢渇し、死に及ぶまで救給はざりしは如何の事にや、虚説もあらんかと委しく尋ね聞きしに、熊本へ出て乞食せんとて老いたるもおさなきもうちつれ出し、みちみちにて道路に倒れ伏して死せしことの有りしに違いな事実事な、余も爰において疑惑し、仁政はなかりしものと思ひき。貴賤の身として、斯く高貴を誹謗する恐れありと雖も、事実を聞きて記せざるもまた諂うに似たれば、僅かに記すならし。


 注 本稿は、郷土史家井上清一先生の講演を基に私見を交えて加筆したものです。よって、聞き誤り書き誤りなどもあるかも知れませんのでご容赦下さい。

2014年09月11日更新