(明和四)同年丁亥六月六日自酉刻至戌下刻而甚雷強雨ニテ二時計大雨如を河水大溢桐原村前塘四十軒(間カ)計切レ崩、古川間部氏 開田塘マテ水湛ケル、暫而此塘流壊ル、仍之始海溜リ湛シ水塘ヲ破シ水勢一時ニ来、瀬替水車家二ツ共下石垣ヨリ一モ不残只一瞬ノ間二流出ス、此節畑川新橋落

〇又下馬尾村水車家並藤七ト云者家流ル、瀬替古川下リ開田悉ク如本河原卜ナル、誠奇代ノ珍事ナリ

 

 明和4年丁亥(ひのとい)6月6日は、新暦で言えば7月1日に当たります。

「自酉刻至戌下刻」と言いますから午後5時頃から午後9時頃まで激しい雷と強雨にて「二時計」とありますから4時間ほど、篠を衝くが如く(篠を突き立てるような)大雨で河の水は大あふれ桐原村前塘40間ばかり切れ崩れ、古川町の間部氏が開田した塘まで水を湛えた。しばらくして、この塘切れ壊れた。よって、これ海の始め(?)溜まり湛えし水、塘を破り水の勢い一時に来て、瀬貝水車家二軒共に下石垣より一つも残らずただ一瞬の間に流れ出た。この頃畑川新橋落ちる。

〇また下馬尾村水車家並びに藤七と云う者の家が流れた。瀬貝古川町下の悉くの開田がもとの河原となる。まこと世にも希な事である。

 ひどい水害だったようですね。桐原の前の塘は、ぼくが子供の時もよく大雨で切れていました。その川の水が、瀬貝の水車も流し、畑の橋まで落としたといいます。この瀬貝の水車は、寛永2年(1625)に浜町の造酒屋組合が酒米の精米のために製造したものです。それが明和4年(1767)の水害で流れました。その後に、再建築され昭和の御代まで動いていました。一方の畑の新橋は宝暦13年(1763)に矢部で最初に架けられた橋です。それがたった4年後にはこれまた水害で流されてしまいました。大変な年でしたね。

2021年12月17日更新