今日は、江戸時代の裁判手続きについて紹介します。テレビでよく見る南町奉行所お白洲でのお裁きは刑事裁判ですね。このような刑事訴訟のことを吟味筋と呼びます。一方、民事訴訟の事は公事(くじ)出入筋と呼んでいました。天領内・藩内であればその役所、またがる場合は評定所(寺社奉行、町奉行、勘定奉行)がとりしきりました。

 

 公事出入筋としては、村同士の境界の争い(村境争議)、入会(いりあい)権などの用益物権に関する争い(入会争議)、農業用水をめぐる争い(用水争議)、鷹場の負担に関する争い(鷹場争議)、交通負担に関する争い(助郷(すけごう)争議)など多彩な訴えがありました。とくに、村の境界は河川を基本としており、洪水などによる川欠け(流形がかわる)をきっかけに訴えが頻繁に起こされました。訴状は目安、調書は口書(くちがき)、判決は裁許(さいきょ)と呼ばれ、判決にあたっては原告と被告とに裁許状が交付されました。上訴制度はありませんでした。また地方から出てきた人を宿泊させる『公事宿』がありました。また、民事訴訟などの手続きを当事者の代わりに行う『公事師』もいました。この公事師が現在の司法書士です。

 

 公事師を取り扱った小説は数多くあります。NHKの時代劇シリーズ「はんなり菊太郎」もそのひとつですね。それというのも、今も昔も争い事は絶えないからです。ぼくの事務所にもいろんな事件が持ち込まれます。以前ぼくは、Facebookで人物を特定できないようにアレンジして公事師事件簿ならぬ「司法書士日記」として紹介していました。ところが、それを見た友だちが心配してくれたので投稿をやめました。いくら、人物を特定できないようにアレンジしても、この世の中には似たような事案をお持ちの方もおり、もしかして自分のことを言っているのではと思われると困りますからね。

 

 江戸時代の民事訴訟は,「調停前置」であり、調停が不成立となり、訴訟へ移行し、奉行の面前で初回取調べが行われるものの,すぐに与力による和解協議に入り、これには、差添人と呼ばれる村役人が立ち会いました。

 

 現在の民事調停の調停主任(裁判官)と調停委員は、与力と差添人の末裔なのです。差添人は村役人ですから、立会に対して給金が支給されることはありません。もっとも、現在の調停委員にはちゃんと日当が支払われます。

 

 弁護士を罵倒する言葉として「三百代言」という言い方をすることがあります。これは、明治のはじめの代言人が俗に訴訟1件を300文(実際に300文だった訳ではなく、二束三文のように価値の少ないことを表します)で引き受け、不適切な活動を行ったのが語源とされています。

2021年12月20日更新