(前回から続く)
本堂の正面には、左右に石燈篭ががあります。本堂に向かって右側の石燈籠の正面には「懸燈」左側の石燈籠の正面には「増光」とそれぞれ書いてあります。
本堂正面左側には、たくさんの石造物があります。まず、本堂に一番近いところから「淡島大明神」を祀る祠があります。基壇には「奉納 世話方和助 石工常次郎」などの刻銘が見えます。郷土史研究家の倉岡良友先生の調査によれば、「この祠は元禄13年(1700)の頃から足手荒神を祀った石祠で、いつの頃か荒神さんが消え(盗難か)たので大正13年に淡島大明神を奉納したのではないか」だそうです。地元では、「目の神さん」とも云うそうです。
淡島大明神の左横にあるのが「火伏地蔵 大日如来 馬頭観音」です。その前には香華台もあります。石祠の方は元禄13年に淡島大明神の基壇の刻銘者と同じく「世話人和助石工常次郎」らによって、香華台の方は天保14年に建立されているようです。
次に「火伏地蔵 大日如来 馬頭観音」の左に「御大師様(弘法大師)」祀る祠があります。扉も石でできています。こちらは、奉納者の「名」だけではなく「姓」も刻銘されているので明治以降の建立と思われます。
御大師様の祠の左横には、宝永3年(1706)の石碑があります。 さらにその左隣には、大小2体の地蔵菩薩の石像があります。大きい方の地蔵菩薩の台座には「地蔵菩薩砥用 田上スミ子」とあります。これも明治以降に奉納されたものだと思われます。
さて、本堂から一番離れた左に足手荒神の社があります。
足手荒神についてはウィキペディアの記載を以下引用させて頂きます。
(引用はじめ)
戦国時代末期の天正15年(1587年)、九州を平定した豊臣秀吉の命にて肥後国を治めることとなった佐々成政の太閤検地に反発し、国衆、民衆が一揆を起こす(肥後国人一揆)。
肥後国衆であった御船城城主の甲斐宗立や、菊池武国、隈部親永等は三万五千の国人を率い、佐々成政の居城隈本城を攻める。一揆勢は果敢に隈本城を攻めるも、落城まで少しのところで、成政を応援する豊臣秀吉方の大部隊が九州、四国から駆けつけ、また宗立の家臣による寝返りもあり、一揆は失敗に終わってしまう。
一揆に失敗し手足に致命的な傷を負いながらも何とか現在の嘉島町上六嘉の地まで逃れた甲斐宗立は、この地にて里人(甲斐神社斉主の祖先)から手厚い手当を受けたという。敗軍の将であるにもかかわらず、これを匿っての献身的な看病にいたく感激した甲斐宗立は、「魂魄この世に留まり子々孫々を見守り、手足に苦しむ者を救いやるであろう」と言い残して死ぬ。後に、その霊を弔うために祠を建てたのがこの神社の起こりであるとされる。
(引用終わり)
甲斐宗立は、あの名将とうたわれた甲斐宗運の長男です。父・宗運の死後、父の遺言を守らず、花の山城を攻撃し反撃を招き阿蘇氏は滅びます。九州は豊臣秀吉によって平定され、宗立は旧領の御船を回復しましたが、肥後の領主として派遣された佐々成政の施策に肥後の国人衆は反発し一揆を起こし、宗立もこれに加わり上述の通り嘉島で亡くなりました。
(次回へ続く)
2021年10月08日更新