浜町は、昔から立派な為政者に恵まれたところである。初代井手玄蕃充は浜町の基を建て、五代矢部勘右エ門重元は新町の上に井手を通じて町の水利の便を計ると共に、下市や染野や瀬貝に数十町歩の美田を開いた。十四代布田保之助の偉業は、人々の熟知するところである。九代の惣庄屋間部忠兵衛公豊は、名惣庄屋の誉高く歴代惣庄屋中土木事業こそ少いが産業を振興して浜町発展の基礎を築いた人である。

 

 肥後藩も、全国的な名産、特産の奨励の波に乗り、藩内に産業を奨励した。当時矢部郷一

帯は,山桑が多かったのでこれを利用して原始的な養蚕を行っていた。気候風土に適していたので優良な繭であったが、産額も少く技術も拙劣であった。

 

 この養蚕に着目した間部公豊は、宝歴十三年(1763)の春、当時肥後藩に於ける蚕業技術の第一人者である島已兮(志賀小左ヱ門と云う二百石取の隠居)を、浜町の自宅に招き養蚕糸繰の方法を浜町の娘、子供に学ばせると共に村々の庄屋を集め養蚕と桑の仕立方の書一巻を、各庄屋に伝受して其の技術を指導した。新しい産業である養蚕について、町の指導的地位にある人々に自分の考えや養蚕の将来について説明し協力を求めた。商人ながら、苗字席力を許されて士分格であった、板屋清助、備前屋清九郎、萬屋弥平次、高屋徳次、天満屋惣左ヱ門等は、全力をあげて協力する事を申出た。

 

 明和三年(1776)春、新町天満屋惣左エ門・娘さほ、古町孫市・娘きよの二名を選んだ公豊は熊本の島已兮宅に絹類機織の法を習いに派遣した。同年冬充分に技術を習得した二人は浜町に帰るや精魂こめて丹後縞を織上げ藩主に献上したるところお褒の言葉と共に鳥目二貫目を拝領した。

 

 矢部地方の織物業と蚕業の重要性を認識した藩の為政者は、その普及と振興を公豊に命じた。そして矢部会所(惣庄屋役所)の役人である惣七(新町惣左ヱ門二男)に養蚕桑楮仕立役を命じ苗字帯刀を許し御郡代直触れという士分格に任じ、養蚕の普及に当らせた。

 

 惣七は傑出した人物で、後に間部公豊の母方の姓を継ぎ、太田忠助と名乗り甲佐郷の御惣庄屋となり、養蚕の先進地である浜町で習得した技術を活用して甲佐地方の基礎を作った人である。

 

 安永四年(1775)四月十五日新町茂兵衛(惣左ヱ門長男) 養蚕紙椿仕立役を仰付られて苗字帯刀を許され御郡代直触となった。公豊はこれ等の人々を活躍せしめて、大いに養蚕の発達に努力する一方、商人の力を得て織機業を盛にして丹後縞を産出した。安永年間頃は、浜町は八代の高田と共に肥後藩指定の養蚕先進地として肥後の産業界に大きな貢献をしたことは、熊本県蚕業史に詳細に記載されている。

 

 浜町の蚕業は、丹後縞の産出でも有名であったが又、蚕種として最も良質で肥後全部に供給していた。現在矢部が製紙原料の楮の熊本県に於ける最大の産地であるのも蚕種紙の原料として種付に努力した公豊や惣七、茂兵衛の普及奨励のお蔭である。

 

 又、茂兵衛は、安永八年(1779)一月二十二日蚕種紙改良の為、山鹿及び筑後より紙漉人を傭い自宅に於て蚕種紙を漉したが、後に水に便利な上司尾に於いて紙漉場を建てた。これが、今日の上司尾紙の始まりである。

 

 現在は、ほとんど少くなったが轟川や千滝川の岸に点々と桑の老木があったのは、これも当時空き地を利用して植えられた桑の名残りである。かっては、藩指定の養蚕先進地であった浜町が僅か二百数十年後の今日、一坪の桑畑もないやうになった事を思うと今昔の感に耐えない。

 

 

 先生は、この項になるとひとしお力が入られます。それもそうです。井上家の先祖たちが大活躍した時代です。皆さんお気づきだと思いますが、惣庄屋・間部公豊さんは、浜町の豪商たちの力を借り、豪商たちは宝暦の改革以降疲弊した矢部手永を救うために惣庄屋と一致団結して惜しみなく協力をします。「美しき日本人」の姿を見る思いがします。

 

 ぼくは数十年前に、むかし上司尾で紙漉きをしていたという「木下さん」のお話しを聞くことができました。残念ながら、木下さんは昨年亡くなられました。ぼくがお伺いしたときは、上司尾から赤秀に移り、さらに畑の「おたっちょさん(阿蘇惟種公の墓)」の横に一人住んでいらっしゃいました。先祖は、先生が書いていらっしゃるように筑後の出身だそうです。御山支配役の木原才次さんの自宅の下に住んだので「木下」を名乗られたそうです。紙漉きの材料となる楮などは木原さんから先祖は分けてもらっていたとおっしゃっていました。ご自分も若い頃、紙漉きをやられていたということで、矢部高校生にも紙漉きを教えに行かれていたこともありました。上司尾の天満宮には、筑後から来た木下さんらの先祖が太鼓を奉納したという記録も残っています。

 

 さて、そんなに矢部のために尽くしてくれた間部公豊さんですが、今は下市染野の墓地に眠っていらっしゃいます。そこは、共同墓地で昼でも暗く、一人で行くのも気味悪いくらいです。近くには、高橋守雄先生の先祖のお墓もあります。

2024年02月15日更新