平安末期は、治安は乱れ、富豪や地主は私兵を蓄えて或は豪族となり、又は武士となって自衛の方法を講じ。時代の波は神職たる大宮司家を神領を維持する為に武門となした、部族神の直系である、大宮司家の結合は、武家の物質的な結合による主従関係でなく、血の団結であり信仰の団結であった。この団結は偉大な力を発揮した阿蘇氏が武門となってより天正の没落を約六百年、世は激しく変化したが、阿蘇氏と領民の間に微動だにしなかった。土御門天皇の承元年間惟次公が阿蘇より矢部に移住されてより、栁本明神は益々尊信篤く、神事は盛大に厳に行われた。文永弘安の元軍来寇の時、惟景公は長子惟恭公と共に武運長久を祈願して出征された。又建武中興や、南北時代に官軍として奮闘した惟直、惟成、惟澄の諸大宮司も出征の度毎に威儀を整え社前に額ずきそして勇躍戦場へ向われた。栁本明神は、武神として弓矢の神として崇敬された。塩井手の大欅は幾度も出陣する将士の後姿を見送った事であろう。


 御船城主安房守房行は、阿蘇家累代の家臣であったが、薩州島津義久に内通して、謀判の企のあることが判明した、時の大宮司惟豊公は、激怒され誅伐の大将として嫡男千寿丸(17才)に甲斐宗運親直を添えて差向けられた。天文5年11月10日柳本明神の社頭に於て出陣式を兼ね、戦勝祈願が行われた。陣幕を引廻らし中央に千寿丸公、傍に甲斐宗運、左右には阿蘇家の重臣をはじめ諸城主、部將等威儀を正して列座している。千寿丸公は召替の鎧一領を奉納して参拝された。神主男成監物充友竹、鎧姿も厳しい儘、願文を読み始めると、皆一同に平伏した。其の時不思議にも神殿俄に鳴動して白羽の鎬矢一筋高く鳴り響いて御船の方へ飛去った。千寿丸公は「出陣の祈願にかる不思議を見ることは神明の感応である。敵の大将房行が矢に当る験である。勝利疑いなし」と、申されたので、将兵一同勇気百倍した。か々るところに、矢部庄司井手清右エ門豊宣が、酒肴と共に赤飯の握飯を家人に担せて「若君の初陣をお祝い申す」と持参した。千寿丸公は非常に喜ばれて先ず神前に供え、やがてそれを下げ諸将士に分け与えられた。甲斐宗達は、軍扇をさっと開いて立上り「いで(井手)やいで(井手)御船の城の敵の首我が手の内に握り飯かな」と舞いながら三度唱った。当意即妙の宗運の舞に御大将はじめ諸将も兵も歓声をあげた。勝鬨、千寿丸公の号令に全軍喉も裂けよとばかり、エイエイオウーと三度勝鬨をあげた。間もなく白馬にまたがった千寿丸公の采配颯々と動くや宗達が吹鳴す蝶貝を合図に勝山城(御岳村横野)主甲斐将監信光(宗蓮の弟)の手勢500を先手とし、黒仁田豊俊守、犬飼備後守、篠原丹波守等の手勢2500余、歩武堂々御船へ進発した。柳本大明神が、小一領大明神と神号を改められた由来は、千寿丸公か召替の小さな鎧一領奉納されたので、小一領大明神と稱えられた、

2024年02月07日更新