嘉永、安政の頃より黒船来航して鎖国の夢は破られた。事毎に外交的に失敗をくり返す幕府の非を鳴して、王政復古を計る諸国の志士達は京都に集って尊王の大義を称え、討幕の計をめぐらした尊王攘夷の新しい思想は全国に広がって行った。
小一領神社の祠官、男成大和翁の説く国学によって大和心を呼起され、渡邊質先生によつて阿蘇氏の勤王事蹟の講義を聞いて早くから勤皇の大義を知っていた浜町の人達は、その頃肥後藩は佐幕論が盛んで勤皇論者は迫害されていたのにも拘らず、この新しい思想を学ために肥後勤皇家の第一人者である七滝村の人宮部鼎蔵先生を招いて講義を聞く計測をしている。
今度稽古場御建方被仰付候に付、文武芸教導請方として宮部鼎蔵方三ヶ年之間御拓可被下旨に而同人扶持方米として三ヶ年之間私共出来可仕分左之通
一、米一俵 野尻善九郎 下田彌十郎
下田作右ェ門 多田市太郎
野尻三右ェ門 下田源三ェ門
下田秀平 件 惣三郎
富田源三郎 高濱富二郎
野尻小平太 下田作之助
右之通三ヶ年之間寸志に取上可申候間然御取斗奉願爲後日覺書
文久元年丙八月 市中 御家人共
布田平之亮殿(保之助翁の子で当時惣庄屋)
御家人共として名を連ねた人達は、備前屋一
御家人共として名を連ねた人たちは、備前屋一門(野尻)、万屋一門(下田)や板屋、高屋、大黒屋等の大商店の主人公で士分の人達である。惣庄屋を通じたこの願は、間もなく聞届けられた。宮部鼎蔵先生を迎えた浜町の人達は燃ゆるが如き愛国の熱情溢る講義を聞いては感激し、武道に於ては豪放な剣風に鍛えられた。
拔擢絕綸守土臣 悠然一意字黎民
石橋萬古通流潤 官道千秋夷隱憐
辭轉長全事業就 懸夾又見功名純
殊恩更有踢章服 燦爛櫻花占幾春
この通潤橋に題して作られた詩は、宮部先生が浜町に文武の師範として居住しておられた頃の作である。宮部先生が浜町に居住せられたのは僅かな期間であつた。肥後勤皇の爲に常
に東奔西走の忙しい中にも浜町へ来られては文武を講じていられた。混乱していた日本に宮部先生を浜町に留めておくことを許さなかつた。
文久二年(1862)春
いざ子供 馬に鞍置け 九重の
御階の桜 散らぬ その間に
の歌一首して残して門人松村深藏を連れて京都へ上られた。間もなく元治元年(1864)六月五日、三條小橋の池田屋に於て新撰組の襲撃の爲に壮烈な最後を遂げられた。短かい期間であつたが、宮部先生が火の様な熟情をもって説かれた尊王の大義に深く浜町の人達の胸に刻み込まれたに違いない。
宮部先生が講義された道場趾は不明であるが、多分旧会所附近であったと思れる。現在の中学校(注・千寿苑)附近を調練場と呼ぶが、ここは浜町に住んでいた士分の人達を訓練するところであった。宮部鼎蔵先生が山鹿流の兵学を調練されたのもここである。
明治十年鹿兒島に兵をげた西郷隆盛に応じて各地の不平士族たちは、先を争って参加した。この不平士族たちも、かつては尊王を称え討幕を叫んだ人たちであった。その尊王は幕府を倒して政権を得んための手段であった。何という無節操であろう。熊本に於ては佐々
友房、池邊吉十郎が熊本隊を編成して賊軍に加わっている。人吉、八代其の他賊軍に参加していないところはない。私が最も誇りとするところは、我が浜町からは一人も賊軍に参加していないことである。これは何に起因するものであろうか、いう迄もなく、男成大和翁、渡邊質先生に加え、宮部鼎蔵先生の講義された眞の尊王の大義が全浜町の人たちの心に深く刻まれていた爲であろう。
2024年03月06日更新