数年前に「大川の六地蔵石幢」を訪ねたときの記事です。熊本地震の影響が心配でしたが、ご覧のようにブルーシートで覆われているものの倒壊はしていないようです。
六地蔵のなかでも、この六地蔵のように石を六面に加工した龕部(がんぶ→岩壁を掘りくぼめた場所)に六体の地蔵菩薩を刻んだものを「六地蔵石幢(せきとう)」と云います。
なぜ六体の地蔵なのかと云うことですが、仏教において、衆生がその業の結果として輪廻転生する六種の世界あるいは境涯のことを六道と呼んでいます。すなわち、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道及び地獄道の六道のことです。お地蔵様はこの六道に迷う衆生を救済するために六道へ分身となって現れると仏教では教えています。
この「大川の六地蔵石幢」は文明13年(1481)に建立されています。阿蘇惟豊公の祖父である惟忠公が大宮司時代ですね。惟忠公は、この六地蔵石幢が建立された3年後の文明16年(1484年)に馬門原の戦いで惟歳と交戦し惟歳打ち破りました。
そんな戦いに明け暮れた戦国時代に建立されたものです。明日をも知れない戦国の世ですから、生前に死後に行う供養を自ら行いました。そのような供養のことを、逆修供養とか予修供養などと云います。ここ「大川の六地蔵石幢」も逆修供養のために「浄音」と云う戒名をもった方が願主となっています。
この「浄音」と云う戒名をもった方は、おそらく六地蔵石幢に刻まれている「代官 定次」と云う方ではないかと思われます。大宮司惟忠公の家臣で当時この地域の年貢の収納を司った方だと思われます。
この六地蔵石幢に隣接して堂が建っており、いろいろな神仏が祀られています。その一体一体の由緒を知りたいのですが、堂内にあった棟板札にはその由緒がわからないと書いてありました。
2021年11月08日更新