昔、原始的な農業形態が生活の全部であった時代は、ほとんど自給自足であった。然し全部の生活品を自給する事は、大変な労力とわずらしさが伴うものである。その内に、物と物と交換して、ほしい物を手に入れる事を考えた。又甲から乙へ、乙から丙へと品物を交換して行く事によって利益を得、生計を維持して行く職業が生れ、商人が生れた。大陸から貨幣が渡来して来ると、商業は急速に発達して、社会の重要な部門となった。

 

 鎌倉時代頃から次第に農業生産が高まり、富農や豪族の家では生産品の余りを交換に出すようになった。又大名や武士達の消費する手工業品も次第に出る様になったので、その結果生産物を交換する市場が定期的に立つ様になり、これが町や都市として次第に発達して行った。

 

 物資の運搬に便利な舟を利用して港や入江で開かれた「津」というのがその市の名である。「津」という名前が地図に点々見られるのはこの名残りである。伊勢の津・四国の多度津・長崎の口の津等がそれである。又津というのは後では市場や町の代名詞でもあった。どの部落からも目標となる大きな森や樹の下で市が開かれた事もあった。この森の市場が固定して出来た村をいつの間にか津森と呼ぶ様になった事と想像される。

 

 又日を定めて市場の開れたところもある。四日、十四日、二十四日に開かれたり、二日の日に開かれたりした。四日市や二日市の地名はこの名残である。

 

 阿蘇文書の中に正平年間(1346年から1370年)阿蘇惟澄が領地矢部の荘の事を書いた文中に現在の部落の地名がほとんど記されてあるが、これから考えても自給自足とはいえ、相当の町があってそれ等の需要に供給していた事は考えられる。入佐町跡(現在の小学校附近から橋附近迄で上町、下町、塩買所、別当屋敷等の地名が残って町のあった事が判断される)や芦屋田の町跡と当時の状況から考えると存在が証明出来る。封建制度が出来て大名領が確立されるにつれて大名は武士を自分の膝元え集め又自分や武士の生活をさえる為に商人を集めたのでそこに城下町が形成された。

 

 城下町の外に交通の要衝や大きな神社やお寺の前には祭礼や縁日のように門前市が開かれて、これが後には固定化して町や都市になった。浜町は三十五万石の大名阿蘇家の城下町として地方の尊信篤い小一領明神の門前市として発達したのである。阿蘇家の重臣で愛藤寺城代であった井手玄蕃允豊治は阿蘇家没落後浪人して愛藤寺城下に居住していたが小西行長滅亡後、慶長十八年に愛寺城が廃城となり取されてから浜町の千滝川の東岸(現在の旧会所附近)に居住した。間となく加藤清正公より矢部郷惣庄屋を命ぜられたので自宅を役所として矢部の開発に努力した。浜町は、小西の焼打後社殿は焼れて境内は荒果ていたが玄蕃允は、明神の境内の跡こそ将来の矢部郷の中心となるところであると判断し、清正公の許を得て小一領明神を現在のところに再建して移し旧境内に町を建設しはじめた。其の愛藤寺の城下町に居住していた町人孫右ェ門、長右エ門をはじめ、浜町の将来性を見越した商人が段々に集って来たので、門前市としてあった商家も数を増し、又惣庄屋の居住する為矢部郷の政治の中心地となったので増々繁昌して阿蘇氏没落後衰えかけた町も復興した。

 

 小一領明神の宮居地であると云うので宮原町と称していた。又惣庄屋の役所のある町というので庄の町と云ったが、後では大宮司家の「浜の館」のあったと云うところから浜町と云う様になった、中町の事を古町と云うのは浜町では中町が一番古い町であるからである。

 

 

 「津」は舟着場に多い地名だと言うのはよく聞きますね。「津留」なども、まさしくそうですね。先生は、「どの部落からも目標となる大きな森や樹の下で市が開かれた事もあった。この森の市場が固定して出来た村をいつの間にか津森と呼ぶ様になった事と想像される。」と書かれています。益城町の「津森」なども、津森神社の社伝によれば「この地は、もともと海が近い土地でありましたが、神武帝の霊体出現によってたちまち森となったと。」と伝えられています。

 

 昔は、浜町でも三斎市が開かれていたそうです。三斎市とは月に三回開かれる市のことで、浜町では7のつく日がその開催日であったといいます。特に2月7日は初市、7月7日は七夕市、10月27日は大市と称されたそうです(「矢部町史」より)。

 

 そもそも、市と神様とは縁の深いものです。中世後期の市は、税が免除され世俗での社会的な関係からも解放される一般の空間とは異なる性格の場でした。市場は単なる交易の場ではなく、宗教的な側面と不可分な側面を有していました。すなわち、市場は非日常的な場で神を祭ることで人々が自由に取引ができるという場でした。

2024年02月09日更新