山都町郷土史伝承会
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山都町郷土史伝承会 お知らせ一覧
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山都町郷土史伝承会
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浜町史蹟めぐり(18-2) 御廟(阿蘇惟豊公の事績1-2) 井上清一
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2024-03-28T01:50
惟豊を追払つた萬休斉惟長は、浜の笛を占領して自ら大宮司と称した。一方鞍岡に隠れた惟豊は、数名の近臣と臥薪嘗騰して大宮司復職の時期をねらっていた。鞍岡には、甲斐親宣という豪族が住んでいた。親宣の先祖は、元寇の戦いに武名をとどろかした菊池武房の第三子の菊池武本で、故あって甲斐の国に住んで甲斐を姓とした。其の後子孫は、日向の鞍岡に居住し、豪族として附近に勢威を振っていたが、親宣は惟豊を助けるために、弟上野介降昌、同左近大夫廉昌、子・民部大輔親直(後に入道して宗運と号した)と共に、鞍岡附近の郷士を集め、永正十四年(1517)僅か数百の兵を以て何なく岩尾城や、浜の館を攻落した。惟豊は再び浜の館に入って大宮司となつた。
惟豊が、甲斐親宣親子と結んだことは、惟豊の運の開ける基であった。再び薩摩に逃げた萬休斉椎長、惟前の父子は、入吉の相良氏を仲に立てて、今迄の罪を謝し、今後大宮司本家にそむかない事を誓った神交血書を、惟豊の軍師甲斐親直に送って許しを乞うた。
惟豊から許されて甲佐に居住していた万休斉惟長、惟前父子も謹慎していたが、惟前の勢いが次第に増して来て、大永三年(1523)には 堅志田城(下益城郡中川村)に拠て、浜の館の大宮司惟豊と勢力を争うようになり、甲佐、砥用附近の阿蘇家臣も、惟前方に靡く者が次第に多くなったので、お家騒動を心配した甲斐親直はじめ悪仁田、犬飼、笹原の重臣、老臣達が相談して、惟豊惟前の和合を計り、甲佐、堅志田、砥用、中山を惟前の領地とし大宮司と称号したので、惟前は甲佐大宮司と称した。
又惟豊は、その娘を惟前に与へて妻となした。
かくて両大宮司は、舅、婿の関係となって平和が保たれたが、野心満々たる惟前は、父・萬休斉推長の死後嫡子惟賢と共に、天文十二年(1543)五月突如兵数百を率いて、矢部、浜の館を攻撃する爲に堅志田を出発した。これより先に、惟前に挙兵の計画のあることを探知した大宮司は、矢部都内の諸城主に陣布れ(動員令)を発した。そして万坂峠附近に陣をとった。万坂峠の地形は、兵法にいう死地である。守るに易く、攻めるに困難な地形である。平凡な大将ならば、一番守り易い峠に陣をとるだらうが、さすがに大宮司惟豊が軍師に選んだ甲斐親直である。彼は、峠よりはるかに降った万坂村附近に陣を布いて、谷間や森陰に兵を隠した。
一方惟前の軍は、敵が必ず陣を布いていると思つた万坂附近に来て見ると、一兵の姿も見えないので、大いに安心して、この分ならば浜の館の奇襲は成功だと、大いに勇んで万坂村附近に差掛ると、突然飛んで来た矢に先頭の数名が倒された。「敵だ」と驚く間もなく、サッ立てられて、甲斐親直が左巴えの旗、吹き鳴すほら貝の音にそこかしこの谷や森陰から現れた伏兵に前後を包囲され、切立てられて戦十人が戦死する。惟前軍の先鋒が混乱して後退する。「敵だ」という声に惟前軍の兵が前に出て戦闘しようとするところへ、退して来た先鋒が入って混乱がひどくなる。其処へ山地に馴れた惟豊の軍が斬り込んで来て、遂に惟前軍は全軍総崩れとなり、万坂山から逆さ落としに砥用の方へ逃げた。勝ちに乗った惟豊方の壮烈な追撃に散々打破られて、堅志田でも防ぐ事が出来ず、命からがら逃げた惟前・惟賢父子は、宇土の郡浦から船で薩磨へと逃げた。
この戦いを前万坂峠の戦という。
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浜町史蹟めぐり(18-1) 御廟(阿蘇惟豊公の事績1-1) 井上清一
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2024-03-23T08:38
白糸道路の 坂道の右側と御廟がある。御廟いうのは、「みたまや」 とも言い貴人のお墓のことである。ここにある貴人とは、阿蘇中興の祖、従二位阿蘇惟豊公である。歴代の大宮司の中でも、惟豊公ほど波瀾万丈の生涯を送った人は少い。
惟豊公は、明応二年(1493)大宮司惟憲の第二子と生れた。其の頃の肥後は、嵐の如く乱れ、東よりは豊後の大友氏の勢力が進入し、北からは龍造寺氏の勢力、南からは薩摩の島津氏が勢力を伸ばしつつあった。
国内にあつても、人吉の相良氏、八代の名和氏、宇土の宇土氏、川尻の川尻氏、玉名の小袋氏や鹿子木氏等の群雄が割拠していた。阿蘇家も僅かに阿蘇、健軍、甲佐、郡浦の四箇社領の外に阿蘇一帶と矢部附近を傾有しているのみであったが、惟家の時代から次第に勢力を増して惟憲の代には、肥後の中央に阿蘇氏ありと近隣に知られるようになった。かつては、征西将軍を奉じて鎮西に武威をとどろかした菊池氏も、戦国時代に入ると昔の面影はなく、衰微の一路を辿るのみであった。菊池二十二代の能運の死後、僅か十四才の政隆は永正元年三月(1504) 菊池二十三代となり肥後守に任ぜられたが、何分若年の為、家臣が心腹せず、家中が纏らず、永正二年十二月三日、菊池一族は、遂に主人である政隆を廃嫡し、重臣八十四名連判にて、その頃次第に勢力増しつつあった阿蘇家と結ぶ爲に浜の館に誓紙連判
状を送って阿蘇惟憲の長子惟長を迎え、菊池家の養子としたいと願ったので、惟長は弟惟豊に大宮司の職を譲り、自身は隈府に入り菊池家を嗣いで菊池武経と改め肥後守と称した。
菊池二十四代となった武経は菊池の一族の城、赤星、木野、隈部等が本家をしのぐ程強大で仲々いう事をきかず、それに大宮司として治めていた領土の半分にも足らぬ有様なので焼糞となり暴逆な行いが多く、家臣の諫言も一向聞き入れず国政も順顧みないので、菊池家の老臣はじめ国中一同憤慨して、隈府城内に険悪な空氣が張漂って来た。
身辺の危険を感じた武経は、永正八年(1511)矢部に逃帰った。旧名阿蘇惟長に復して萬休齊と号した(養子先は追出され、家は弟が嗣いでいるし萬事休すのシャレであろう) 葛休斉は、しばらくはおとなしくしていたが、やがて弟・惟豊を除けて大宮司職を奪おうと喋り密かに兵を集めていたが、謀が漏れ惟豊は兵を差し向け俄に攻めたので萬休斉惟長は命からがら薩摩に逃げたが、間もなく島津氏の後援により薩摩の満家院の荘、伊集院の荘(この二荘は、阿蘇惟時の勤王の恩賞として南朝より阿蘇家に賜ったもの)の数千の兵を率い、又父・萬休斉に勝って勇敢といはれた子・惟前と共に永正十年(1513)三月十一日突如矢部浜の館を襲撃した。大宮司惟豊は僅かの部下を指揮して必死に防戦したが遂に破られて、四五名の近臣と共に危機を脱して、日向の鞍岡に隠れた。
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白糸散策(3)通潤橋竣功百年祭記念碑、百五十年記念碑、布田家家紋
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2024-03-23T08:29
布田神社の拝殿と神殿を一周し神社正面に戻りますと、現在は熊本地震で倒れていますが、拝殿から鳥居に向かって左手に架橋百年祭と百五十周年の際の祈念碑が建立されています。前者には通潤橋の石管の上に記念碑が建てられ当時の熊本県知事である櫻井三郎知事が揮毫されています。後者は「通潤魂」と書かれた祈念碑の横に当時の県知事潮谷義子知事が揮毫されています。 鳥居の方向へさらに進むと、通潤橋の石管風のモニュメントが建っています。石管の上部には、家紋が刻まれています。この家紋は木瓜紋ですね。織田家の家紋として有名です。布田家は織田家に繋がる家だと聞いています。その関係で、織田の家紋である木瓜紋が使われているのかも知れませんね。
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浜町史蹟めぐり(17-2) 水道町(矢部勘右衛門重元の事績) 井上清一
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2024-03-22T08:04
(前回より続く)
浜町の水道町の水道は、勘右衛門の最大の事業であった。 勘右衛門は、現在の新町一帶、下市附近に水を引けば畑を水田にすることができるのに着眼して井手を築いて川の水を引く計面で工事に着手した。現在の水道町に築かれた井手塘は、全長二一〇間、最高二間、天端一間四尺、西側に巾四尺の犬走り、天端には巾四尺、深さ二尺五寸の井手が通っていた。この全長二一〇間の横塘の盛土の量は約六〇〇坪となるが、勘右衛門は、このぼう大な土を岩尾城の大手口にあたる亀の甲の首にあたるところから堀取った。現在の赤禿滝附近からである。赤禿という地名もこの堀取られた山肌から名付けられたものであろう。井手塘の両側の石垣は約五一〇坪で、この石は赤禿滝附近から出された。私のしろうと計算であるが、これに要した人夫は
井手塘の盛土 六〇〇坪 一三五〇人
石垣 五一〇坪 九一〇人
(但し、石垣築は石工及び人夫を含む)
合計 二二六〇人となる。
勘右衛門は、切取ったところを利用して職川の水を通して川の流れを変えた。そして岩尾城の大手口を廻って流れていた川床を水田とした。中尾部落の前に、小川が流れているとこるが昔の川の跡である。水道町の横塘を流れる水は、一部お廟の前一帯の水田を養い、大部分は下市の井手を流れて、下市一帯の水田を潤し、小一領神社の下を潜り、旧会所へ現在の種馬所のところにでて、染野附近の水田を養ってる。現在の山水楼のところから別れた一部の水は、瀬貝の大けやきの上を流れて現在の避病院の下一帯の水田を養っている。
現在でも、約十町歩の水田を養っているこの横塘は、築かれた当時はどれだけの水田を養っていたであろうか。元祿元年にさかのぼって当時の浜町の状況を考えてみると、浜町も横町も水道町もなかった。横町が元祿十三年、新町が元祿十五年にできたのである。当時は中町以東は一面の水田であった。
新町、横町一帶 約十町歩
下市 お廟付近 約五町歩
旧会所附近 約五町歩
避病院下附近 約四町歩
轟川旧川床(中尾前)約三町歩
合計 約二十七町歩
この用水路の完成によって一反歩五俵の収穫と見ても、毎年一三五〇俵の増収となる。勘右衛門の先見の明に敬服せざるを得ない。
その後、この横塘は、時代と共に変化した。第九代惣庄屋間部忠兵衛公整の頃の明和年間(1764~1772) 日向往還であった新町筋は相当交通量であったが、皆この横塘を乗り越えて往来していたが、大変不便であったので、町の巾だけ切取り、塘には大きな樋を架けてを通していた。通行の人々はこの樋の下をくゞつて通っていた。
その後、明治三十八年頃、現在の山水楼ところから石原辰雄氏宅の付近までの横塘が取除かれ、家が建並び、片側町であった水町が立派な町となり、井手は水道町の地下通潤橋をそのまままねて、サイフォン式の上げとなり、渡辺病院の横に吹上げていた。えびす屋横の記念碑の台になっている丸い穴石が、通潤橋式の石管である。サイフォンの内部にたまる土砂排出のために通潤橋式の木管が用意されていた。その後、昭和八年二月頃白糸道路の改修と共に横塘は、全部取除かれて、直径一尺のヒューム管が地下七尺に埋められ、吹上は更に延長されて現在のとおりとなった。取除かれた土は、一部拡張中であった新裏町に土帰りのために使用された。勘右衛門重元が築いた横塘は今はなく、わずか南端に面影のみを止めているが、工事場の赤禿滝は、浜町の景勝を引立てると共に、勘右衛門重元の不朽の功績を永遠に伝えるであろう。
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浜町史蹟めぐり(17-1) 水道町(矢部勘右衛門重元の事績) 井上清一
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2024-03-13T08:55
本来ならば、ここは(16)でなければならないですが、なぜか番号が飛んでいます。以下、井上先生の記事です。
熊本の人が水道町の名を聞くと「熊本の水道町と同じ町名ですね。」というが、浜町の水道町は現に水道が通って十数町歩の水田を潤しているだけでなく、その水道は、現在は形が変っているが、元禄元年頃(1688)に寛政された珍らしい水道であることを知る人はきわめて少い。熊本の水道町よりも浜町の水道町が本家である。
三十才以上の人たちはまだ記憶していられると思うが、渡辺病院の板べい附近に、高さ約二間位の塘が下市の方へ続いていたことを御存知と思う。町の人たちは、横塘と称した。この横塘は、その後取払われてなくなり、現在は山水桜のところと、公民館の横に端だけを残しているが、これがその水道である。
この水道は第五代目の矢部惣庄屋矢部勘右衛門重元が完成した水道である。勘右衛門重元は、布田保之助と共に土木事業の天才で、浜町がこの人から受けている恩はきわめて大きい。
勘右衛門は、熊本小沢町に生れ、若年の頃より矢部に来て、菅、目丸より材木をきり出す仕事をしていたが、傑出した人物であったので、二十六才の時に士分に抜擢されて杣番役を仰せつけられ、後、更に昇進して、山支配役に任ぜられたが、抜群の人であったので、三十七才の時に第五代の矢部惣庄屋を仰せつけられた。
そこで、本姓古閑を改めて矢部と名乗り矢部右衛門重元と称した。名惣庄屋で、殖産、民治と幾多の事業を残している。天和二年(1682)に正福寺(浜町) 吉祥寺(名連川村下名連石) 西安寺(朝日村郷野原)の三ヶ寺を建立した。又御岳山の頂上にある観音堂及び浜町金比羅山の地蔵堂の地藏菩薩寺は勘右衛門の建立したものと伝えられる。又貞享四年(1687)の春、細川与一郎公細川五代綱和公の長子の誕生をことほぎ、熊本主還の矢部郷内三里の間に道の左右に松の並木を植えた。現在は、水の田尾、長谷の旧道に一、二本残っているだけであるが、三十年程前頃は幕の平附近の旧道に見事な松並木があったそうである。戦時中に松根油の原料として堀取られた古株はこの恋並木の根である。
勘右衛門は、惣産屋を勤むること十四年で、元禄七年、嫡子衛門重政に庄屋役を譲った。重元は退役の後、古閑長左衛門と改めて、浜町の瀬貝に隠居したが、元禄八年、再び召出されて上監城御山奉行の要職についたが、その後、御国中御山惣目付役として肥後藩の林政に貢献した人である。勘右衛門は、又土木事業の大家であった。惣庄屋として在職中郷内各所に水利を計り畑を田となした。中でも、工事の大きなものは入佐の今古閑の山を堀切って下名連石川の水を引いて、恵良、鶴の舞附近の旧川床や畑を水田とし、
今古閑の旧川床も立派な水田となり、合計十五町の新田を得た。これは貞享元年頃(1684)である(次回へ続く)。
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浜町史蹟めぐり(15-2) 浜町の成長(8-2) 井上清一
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2024-03-12T08:01
(前回より続く)
官軍は、反乱軍の包囲下にある熊本城の友軍を救出せんと、野津、三好少将の率いる二箇旅団を主力として猛烈な攻撃を繰返すが、反乱軍は吉次峠や田原坂の天険によつた勇猛無比の薩摩隼人である。頑強に抵抗するので、一歩も前進ができない。そこで政府は、黒田清隆を征討軍とし、大警槻川路利の率いる別動第一旅団と山田少将の率いる別動第二旅団とを、反乱軍の後方基地であつた八代に奇襲上陸せしめ、熊本城を包囲する反乱軍の背後を攻撃させた。
この為に反乱軍は全線総崩れとなり、四月十五日には植木を捨て、木山を通り、御船にて残兵をまとめ追撃して来た官軍と御船川で一戦し、主力は浜町を通して見原原-三田井へ、一部は南郷を通り三田井へ退却した。四月十六日、退却途中の肥後の敵愾隊士数名が金内の和田弥一の家に再び現われて、「お前が隠している官金は二千円だけではない。もつと外に隠しているだろう」と家宅提索をはじめた。「県庁保管の官金は約五万円である。その内和田弥一から先に奪った三千円と渡辺現が切破った三万七千五百円と合計しても四万円足らずである。或いは渡辺か和田が残りの一万円を隠しているかもしれない」之が捜索に当つた敵愾隊士の考えであった。不幸にも和田弥一が先にした六千(欠字)ちは、残金は必ず渡辺現が隠しているに相違ないと猿渡に急いだ。一方和田弥一とその子・平蔵は縛されて浜町へ引かれた。同日に渡辺現の家も厳重な捜索をうけたが、金は遂に発見されなかつた。隊士は、現とその子・量藏を縛して浜町へ引立てた。残金を追及して取調べたが四人は一言も発しない。怒った隊士は惨酷な拷問を行った。渡辺は、これにも屈せず激しい口調で反乱軍の行為をのしつたので、隊士は黙らせようと木片を口におしこんだところ、現は、その木片をかみ切ったそうである。拷問によっても、その志を奪うことのできないことを知った隊士は、足の骨が砕け歩行のできない渡辺現等四名を町を引ずり廻し、瀬貝で四名の首を斬つた。その場所は、赤禿の旧道が本道に交るところの下に井手塘がある土佐鍛冶屋の裏手である。渡辺現の墓は、猿渡の北河内にあつて、現の事蹟は碑文に刻まれている。文は、明治初期の文豪福地源一郎、書は当時一流の家、伊勢の佐本光暉書の書である。
私は長々と西南の役と渡辺現の事蹟を述べたが、渡辺現こそは同族渡辺質先生の薫陶を受けて、浜町の花を咲かせ壮烈な散り方をした人である。又明治二十年頃、浜町に来遊した時日本第一の書家を以て自他共に許した太宰府天満宮の神宮、宮小路浩汐をして唸らせた程の隠れた名筆、井手臥雲先生は明(欠字)の師匠であつた。臥雲先生も又渡辺質先生の薫陶を受けた一人である。このことからみても、涙町の文教は井の中の蛙のような地方文化ではなく、中央の文化に劣るものではないことがわかる。
浜町の老人たちが、大勝座附近を「さんしょく」というが、ここが第九大区第三小区の役所のあったところである。明治六年郡制改革の際、大区小区を設けられ、浜町の大部(杉、梅木、布田を除く) 下矢部村全部、中島村の原村が第三小区で、渡辺現は第三小区の戶長であつた。
昔から、夢の様にころがり込んで来た幸福な話に、馬見原の鞄、浜町の金の采配、御船の炭俵というが、御船の炭俵こそ、県庁の官金で渡辺現も知らなかつた四千円ではあるまいか、炭俵に包まれた金は、当時の小額紙幣であつたとの説もあるところから考えると、官金密送にあたつた正木等が小額紙幣のみを残したものであろうと想像される。
文化年間頃から有名になつた本に「嘗難農話」という本がある。別名仁助咄という本であるが、明和、安永の頃の苦しい慶民生活を、百姓仁助を中心に対話風に書き、藩政等も批判してあるので著者も不明であるが、当時、藩の為政者や家老たちが「政治は民意を知るを根本とする」と朱書して座右の書として珍重した本である。著者のヒューマニズムと著者不明のため(以下欠字)。
以下文脈から推定しますと、この仁助咄が渡辺質先生の著であろうとの井上先生の推測が書かれてあります。本書に書かれている和田弥一とその子・平蔵は、和田静子さんのご主人のご先祖です。官金を守るために命を捧げられた和田弥一・平蔵親子、そして渡辺現・量藏親子のご冥福をお祈りします。
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阿蘇家ゆかりの史蹟散策会
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2024-03-08T05:28
山都町郷土史伝承会では、3月9日(土)午後から浜町地区内の、阿蘇惟豊公御廟、岩尾城跡、浜の館跡、お梅さん、矢村神社、地蔵坂、阿蘇惟種公墓(オタッチョサン)、福王寺、慶蔵寺跡、千体地蔵、光巌寺、法印豪忠の墓等々阿蘇家ゆかりの史蹟を散策します。なお、沿線上にある阿蘇家以外の史蹟についても紹介します。 半日では、とても全部は廻れないかも知れませんが、皆さんに場所だけでも知って欲しいので廻れるだけ廻りたいと思います。 明日は午後1時30分に、藤乃屋前駐車場(通潤橋ミエルテラス上の駐車場)に集合です。会員以外の参加者も歓迎します。今回は、会員以外の参加者についても参加費無料です。
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浜町史蹟めぐり(15-1) 浜町の成長(8-1) 井上清一
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2024-03-08T05:25
明治十年二月十五日、血気に逸る薩摩隼人一万五千を率いた西郷隆盛は鎧袖一触と熊本城を包囲した。熊本鎮台司令長官、谷干城は守兵を激励してよく防ぐし、城は天下の名城である。連日連夜攻撃は続けられ、史上有名な熊本城の籠城戦となつた。漸く発足したばかりの明治政府は、西郷隆盛挙兵の報に驚いた。この処置を誤れば、全国の不平士族が蜂起して天下大乱の動機ともなり兼ねない。明治天皇も大変御心配になつて、熾仁親王を征討総督とし陸軍中将山県有朋、海軍中将川村純義を参軍とし、陸海五万の大兵を以て征討戦が開かれた。有名な吉次峠や田原坂の激戦となり、肥前の山野は血腥い戦雲に包まれた。
これより先、薩軍来るの報を受けた熊本県庁は戦火を避ける為に移つた。熊令(知事)富岡敬明はじめ県主脳部が一番心配したことは、県庁保管の官金五万円の処置であつた。絶対に反乱軍の手に渡してはならぬ熊本から反乱軍に加担した池部吉十郎、佐々友房の率いる熊本隊もこの官金をねらっている。実に重大な任務である。この(欠字。以下同じ)それは、第九大区第三小区戶長渡辺現より外にはない。これが御船に避難した県庁役員一同の一致した意見であった。猿渡村の渡辺現の家まで五万円を運搬する人が県庁役員の内から選ばれた正木之寿、神江弁吾、竹永俊綱等であつた。密命を受けた正木寿等外二名は、折から連絡のため御船の県庁へ来ていた中島村金内の戶長、和田弥一、下矢部村藤木の戶長、佐野一郎を道案内として夜陰、官金五万円を守つて矢部に走った。夜が明け人目については、大事発覚の基である。夜明け頃、漸く金内に倒着した一行は、密に和田弥一の家に隠れた。人目を忍んで協議した結果、弥一に八千円を託した一行は、その夜、佐野一郎の案内で下矢部村猿の北河内、渡辺現に隠れた。知らせによつて夜になるのを待ち、浜町の役所から帰つて来た現に菖金三万七千五百円を託し、間道伝いに御船の方に帰つた。
この極秘裡に行われた官金の隠匿も、反乱軍の肥前協同隊の探知するところとなり、先ず中島村金内の戸長和田弥一の家が捜索を受け、保管を命ぜられた八千円の中、まだ(欠字)の発見するところとなり、遂に奪われてしまつた。これに勢を得た彼等は、更に渡辺現の家に現われた。あまりに彼等の来方が急であつたので隠す暇もなく、今はこれまでと死を決した現は官金三万七千五百円をことごとく切破り使用不能にした。
反乱軍が熊本城を包囲した当時は勢が盛んで、反乱軍が発行した軍票(西郷札)も紙幣同様流通したが、戦況が不利になるにつれて、明治政府発行の紙幣でなければ物資も集らないようになつてきた。この県庁保管の官金は、反乱軍にとつて戦勢をばん回する為に絶対必要な金であつた。僅か五万円位と思われる人があるかも知れないが、その頃の記録を見ると米一俵が一円内外で買え、人夫賃が五、六銭、子供の小銭が一厘であつたところから判断しても、当時の五万円の価値が想像できよう。その反乱軍がねらつていた紙幣がずたずたに切られ紙屑同然となつたのである。彼等が激怒するのも無理はない。しかし、現が己の一身をもかえりみず行つたことは反乱軍を感動せしめた。反乱軍とはいえ、やはり熊本(欠字)烈な気魄に感じ現の縛をといて去った(次回へ続く)。
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浜町史蹟めぐり(14) 浜町の成長(7) 井上清一
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2024-03-06T08:05
嘉永、安政の頃より黒船来航して鎖国の夢は破られた。事毎に外交的に失敗をくり返す幕府の非を鳴して、王政復古を計る諸国の志士達は京都に集って尊王の大義を称え、討幕の計をめぐらした尊王攘夷の新しい思想は全国に広がって行った。
小一領神社の祠官、男成大和翁の説く国学によって大和心を呼起され、渡邊質先生によつて阿蘇氏の勤王事蹟の講義を聞いて早くから勤皇の大義を知っていた浜町の人達は、その頃肥後藩は佐幕論が盛んで勤皇論者は迫害されていたのにも拘らず、この新しい思想を学ために肥後勤皇家の第一人者である七滝村の人宮部鼎蔵先生を招いて講義を聞く計測をしている。
今度稽古場御建方被仰付候に付、文武芸教導請方として宮部鼎蔵方三ヶ年之間御拓可被下旨に而同人扶持方米として三ヶ年之間私共出来可仕分左之通
一、米一俵 野尻善九郎 下田彌十郎
下田作右ェ門 多田市太郎
野尻三右ェ門 下田源三ェ門
下田秀平 件 惣三郎
富田源三郎 高濱富二郎
野尻小平太 下田作之助
右之通三ヶ年之間寸志に取上可申候間然御取斗奉願爲後日覺書
文久元年丙八月 市中 御家人共
布田平之亮殿(保之助翁の子で当時惣庄屋)
御家人共として名を連ねた人達は、備前屋一
御家人共として名を連ねた人たちは、備前屋一門(野尻)、万屋一門(下田)や板屋、高屋、大黒屋等の大商店の主人公で士分の人達である。惣庄屋を通じたこの願は、間もなく聞届けられた。宮部鼎蔵先生を迎えた浜町の人達は燃ゆるが如き愛国の熱情溢る講義を聞いては感激し、武道に於ては豪放な剣風に鍛えられた。
拔擢絕綸守土臣 悠然一意字黎民
石橋萬古通流潤 官道千秋夷隱憐
辭轉長全事業就 懸夾又見功名純
殊恩更有踢章服 燦爛櫻花占幾春
この通潤橋に題して作られた詩は、宮部先生が浜町に文武の師範として居住しておられた頃の作である。宮部先生が浜町に居住せられたのは僅かな期間であつた。肥後勤皇の爲に常
に東奔西走の忙しい中にも浜町へ来られては文武を講じていられた。混乱していた日本に宮部先生を浜町に留めておくことを許さなかつた。
文久二年(1862)春
いざ子供 馬に鞍置け 九重の
御階の桜 散らぬ その間に
の歌一首して残して門人松村深藏を連れて京都へ上られた。間もなく元治元年(1864)六月五日、三條小橋の池田屋に於て新撰組の襲撃の爲に壮烈な最後を遂げられた。短かい期間であつたが、宮部先生が火の様な熟情をもって説かれた尊王の大義に深く浜町の人達の胸に刻み込まれたに違いない。
宮部先生が講義された道場趾は不明であるが、多分旧会所附近であったと思れる。現在の中学校(注・千寿苑)附近を調練場と呼ぶが、ここは浜町に住んでいた士分の人達を訓練するところであった。宮部鼎蔵先生が山鹿流の兵学を調練されたのもここである。
明治十年鹿兒島に兵をげた西郷隆盛に応じて各地の不平士族たちは、先を争って参加した。この不平士族たちも、かつては尊王を称え討幕を叫んだ人たちであった。その尊王は幕府を倒して政権を得んための手段であった。何という無節操であろう。熊本に於ては佐々
友房、池邊吉十郎が熊本隊を編成して賊軍に加わっている。人吉、八代其の他賊軍に参加していないところはない。私が最も誇りとするところは、我が浜町からは一人も賊軍に参加していないことである。これは何に起因するものであろうか、いう迄もなく、男成大和翁、渡邊質先生に加え、宮部鼎蔵先生の講義された眞の尊王の大義が全浜町の人たちの心に深く刻まれていた爲であろう。
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浜町史蹟めぐり(13) 浜町の成長(6) 井上清一
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2024-03-02T04:44
浜町の先覚者達が交易によって京阪地方から運んだものは産物だけではなく、新しい学術、思想技術等も移入された。常に中央の新しい空気を呼吸する、この精神は永く伝えられた。
一例を挙ぐれば、当時の土木技術の精粋ともいうべき通橋橋も、矢部の山間に忽然と現れたものではなく、考案者布翁の学識は浜町が育てたものであり、浜町の文化が基礎となってその上に築かれたものである。若き日の布田翁を薫陶せられたのは浜町が生んだ学者渡辺質先生である。号を巌阿斉といった。安永三年四月二十七日(1774)に新町の松陰堂に呱々の声を上げられた。先生の先祖は、鬼の腕を切取って勇名を轟かした渡辺綱である。又天正の頃、阿蘇家没落後、幼君惟光・惟善を目丸の山中にかくまった阿蘇家の忠臣渡辺軍兵
衛吉次も質先生の先祖である。質先生は寛政三年医者を志して近藤三折の門に入り、同九年藩の再春館の医師となり、三百匹の金子を賜った程の秀才である。有馬源内先生や富田大渕先生や近藤英助先生の門に入て和漢の学を修められた。又近所であった関係上特に男成大和翁について、国学や和歌を学んでその奥義を究められた。大和翁は小一領社の祠官で文化五年(1808)七月一五日、八十三オで死去されたが、明和頃の浜町最盛期の人達は皆大和翁の教え子である。
質先生は、その外に藩の絵師、矢野良勝について絵を、又山東佐十郎について武技を学びいづれも達人であった。天保四年(1833)抜擢せられて御郡医並に教導師を命ぜられて、年々金子四百匹を賜るようになったので、郷内は勿論、郡内各地より入門する者多く、門弟も三百数十人を数えた。
浜町が文化的に発達した後に、質先生のあった事を忘れてはならない。嘉永元年(1848)十月四日、御岳村横野附近の病家を診察の帰途、紅葉した大矢川の峡谷(横野滝の下流)は一幅の名画であった。大いに歌心を動かされた先生は、横野と田所の中間にあるハッタイ滝の厳頭に立たれてこの絶景に恍惚となり、作歌中に過って滝壺に落下して悲惨な最後を遂げられた。肥後藩の学者として名高い木下業広先生とは、深く交際して居られたが、木下先生は、質先生の不慮の死を聞かれるや驚き悲しみその功を讃えて長文の碑文を作られた。
質先生の墓は、染野の火薬庫の上にある。先生の著書には矢部風土記(歴史)、経終物物一家言(医書)、厳阿澄稿二十巻、其の外多数の著書がある。
昭和十二年頃、質先生が差しておられた脇差が最後を遂げられた川底より発見された。先生の曽孫に当られる渡辺高悦先生より見せて戴いたが、永く水中にあったので錆朽ていたが、ところどころ拵えの金像眼が光っていた。確に相州物のように拝見した。質先生の最後を物語る遺品である。
布田保之助翁は、少年の頃より先生の薫陶を受けられたが、惣庄屋となられてからも師礼をとられ、施政上の顧問としておられた。最愛の一子平之允が十才の天保四年(1833)三月三十日に質先生の門に入門させておられるのみでなく、布田一門の教育を依頼しておられる。質先生の入門名録によれば、布田友次(太郎右ヱ門)翁の伯父、山本十之助(布田
市郎次)、布田平之允(翁の嗣子)、布田彦之助(太郎右ヱ門二男)等の名が記されてある。
翁は、質先生の不慮の死後その長男健氏を常に引立られた。先生は、無欲であったので家は荒果てていた。布田翁は通潤橋落成後台橋に使用した木材を健氏に贈られた。松堂はその木材で建てられたものである。この家は、布田保之助翁と渡辺質先生の美しい師弟愛を物語るものである。町としても、ぜひ保存して立札をして大勢の人に知らしめなければならない。記念建造物である。
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浜町史蹟めぐり(12-2) 浜町の成長(5-2) 井上清一
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2024-02-27T06:11
清九郎の報告によって、丹後縞や絹織物の好評に気をよくした藩の産業導者は、熊本の萬町附近に製絲工場と織物工場を建てた。この織物工場に、教授方として招かれたのは、浜町の子女達であった。この工場が、後年の肥後製糸である。
小一丸は、年に二回か三回京阪と肥後の間を往復した。
いづれも航海は、平穏無事で利益も莫大なものであった。後年肥後東部の富農として阿蘇郡坂梨村の虎屋(菅氏)、 高森の豊後屋(山村氏)、馬見原の吉野屋(今村氏)等と並んで浜町の備前屋は有名であった。細川公領内巡視の際は宿所となった(お成りの間として現存している)。それ程の富豪になった基礎は清九郎の頃に築かれたものである。
この清九郎は、非常な敬神家であった。小一丸の平穏な海は、ひとえに神号を戴いた小一領大明神のお陰であると、天明七年(1787)三月、独力で小一領大明神の拝殿寄進の工事を起し四月十五日落成竣工した。二間に二間半で現在の拝殿がそれである(その後増築されて少々変化している) 又寛政元年(1789)、小一丸に乗って上京の際、大阪の石屋に影石の狛犬を注文した。そして、寛政二年(1790)再度上京した時、見事に出来上った狛犬を小一丸に積込んだ。川尻迄は船で、川尻から熊本迄は車で、さて熊本からが大変である。浜町路悪路の十二里、勿論その頃は車の通る道はなかった、記録によれば狛犬一体に人夫四人、台石四個に大が二人が一人で合計狛犬一基について人夫十人、狛犬一対で二十人と云う人数で、九月一日熊本を出発してヨイショヨイショと軍見坂を休み休み登り、八勢の悪路を越え、金内、原村を通り、九月八日に神殿の下陣(玉垣の内)に漸く据付けた。この間八日、人夫の草臥もさることながら延百六十人の人夫賃も大した額であったであろう。
奉納されたのは寛政二年(1790)九月八日であるが、狛犬の台石に寛政元年五月とあるのは大阪で清九郎が注文した時である。現在は拝殿の前に据えてある、
又、航海者の守護神である讃岐の金刀比羅大明神を勧進して瀬貝山の天狗松の下に祠を建てて信仰した。これが現在の金刀比羅社で今でも備前屋から管理して居られる。その社殿に大国丸と云う鋼板の船号を掲げてあるが、これは小一丸の次に新造された前屋の船の名である。
天明という年号で見出すことは、老中田沼意次によってはじめられた全国的な賄賂政治と飢餓と暴動である。矢部もその例外ではなかった。天明七年(1787)には、草や松の皮迄食った。その年には、藩主の膝元である熊本ですら町や新町等の富豪の家に暴民達が乱入して打こわしを働いてる程である。浜町のその頃の米価を列記して見ると、
明和三年(1766) 米一俵(三斗入) 十三匁五分
十二年後の
安永七年(1778) 米一俵(三斗入) 二十一匁
九年後の
天明七年(1787)五月 米一俵(三斗入) 七十匁
と云うような驚くべき暴騰である。銀一匁で僅に六合しか求められなかった。食えない者もあったろう。然し浜町からは、餓死者はもとより暴民も出ていない。これは、当時の浜町商人達が一致して惣庄屋間部忠次公正(公豊の子)を助け救侐米を施したり、或は無償で金や米を貸したからである。乏しいながらも貯えの米を分ち合ってを飢えを凌いだ。
熊本の富豪が利益の為に米を買占めて、食べない人達が暴民となって打こわしたのと比べて、何という人格の差であろうか。この時率先して酒造米を放出したりして一番活躍した人は清九郎であった。この敬神と慈善の家訓は代々伝えられた。
小一領神社の神木の下附近にある石燈篭は、ほとんど備前屋代々の寄進になるものである。年末に困窮者に米や金を送るのは、毎年のしきたりであった。
美談は、さらに美族を生む。九十年後の明治七年、小一領神社小路から発した火災は、浜町肇まって以来の大火となり、全町の三分の二を焼失せしめた。その時,人々は前屋を焼くな、備前屋を教えと駈付けて猛火の中で奮闘した。そして前屋のみが、焼土の中に残った。備前屋を焼くなと叫んで消火に努力した人の絶叫は、天明の飢饉に、苦しい年末に、助けられた親の、祖父の、魂の叫びであった。
この浜町発展の恩人備前屋清九郎は、寛政九年(1797)十月七日、五十二歳の壮齢で去った。私は浜町に清九郎の様な人を持つた事を誇りとするものである。
金を貯える事のみに狂騰して、生きた金の使い方を知らない人達に、清九郎の墓の苔を煎じて飲ませたい。その墓は、中染野(種馬所の東の方)の一番下にある。肝胆照した名惣庄屋間部公置の墓の程遠からぬ松の下にある質素な墓である。
素晴らしい惣庄屋間部公豊、そして浜町の豪商達、その中でもリーダーシップを発揮する備前屋清九郎、そうそうたるメンバーで、浜町は危機を乗り切りました。しかも、豪商達は困窮者を救い、町の人々は代が代わっても火事場に駆けつけ備前屋を火事から守ったと言います。恩返し、恩送りが行われたこの浜町、井上先生でなくても誇りに思います。
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浜町史蹟めぐり(12-1) 浜町の成長(5-1) 井上清一
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2024-02-22T07:46
当時の肥後は、天下の名君として有名であった細川八代目の重賢公で霊感公ともいった。積極的な殖産興業の方針によって、茶、楮、櫨、桑等を植えさせて、製茶、製紙、製蝋、養蚕等を奨励したのは、天明より二十五年前の宝暦年間の事である。又堀平太左ヱ門を抜擢して家老職となし、政治に経済に又教育に改革を加えたので、肥後藩は面目ともに一新した。世にこれを宝暦の改革と云い、産業藩として肥後の名は天下に鳴響いた。肥後の産物が京阪の地で好評を得て陸続と送られた。各種産業の繁栄は収入の増加となり民家の生活の余祐となり、藩主霊感公の善政を謳歌して殿様祭りや盛大な豊年祭が到るところで催された。浜町が誇る八朔祭もそれまでの笹踊り、或は地縮といった、農民舞踊が商人達の参加によって現在の八朔祭の様になったのも、明和の頃である。
上に名君霊感公あり、名家老堀平太左ヱ門の補佐によって、宝暦の改革を断行したやうに、浜町に於ても名惣庄屋公豊を補けて新進気鋭の商人備前屋清九郎をはじめ、萬屋弥平次、板屋清助、天満屋次兵衛、高屋徳次等の努力によって浜町があらゆる方向に飛躍的な発展を遂げ、今日の浜町の基礎を築いたのもこの時代である。
天明二年(1782)四月下旬、川尻を出帆した小一丸は六月上旬大阪に着いた、丹後縞の織物は特に好評であった。交易を終った小一丸は木綿類や塩や藍玉など付近の産物を満載して帰航の途についた。航路は平穏のみではなかった。丁度台風期である。七月二日、同十六日、八月二十三日と三度台風は荒狂った、吹きつのる暴風雨を冒して清九郎は小一領大明神に参篭して小一丸の安全を祈った。三度の大風に多数の船は難破したが小一丸は積荷共送恙無く八月末川尻に安着の旨通知が来たので、お礼の為小一領大明神に一夜参篭した。
番頭や船頭の報告、それは驚異の連続であった。今日迄矢部の小さな天地で商売をしてゐた清九郎は、眼前の幕が取除かれた様な気持がした。船だ、船でなければと思ったのが的中したことも嬉しかったが、洋々たる前途が開かれたのが何よりも嬉しかった。満九郎はこの成功を理解し援助してくれた今はなき公豊の墓前に報告した(間部公豊は安永五年五月二十三日六十一才で没した)。
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浜町史蹟めぐり(11) 浜町の成長(4) 井上清一
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2024-02-21T08:46
浜町産の絹織物「丹後縞」は藩の奨励という時代の波に乗って盛んに産出された。今迄の工業生産は農家の家内工業か、或は親方と弟子と小さな仕事場でする同業組合的な手工業にすぎなかつた。それ等の製品を買集めていた何屋と呼ばれる小さな資本家は、大きな工場を作り、労働者を集めて仕事をさせる方が、はるかに能率があがり、生産があがることを発見した、手工業ではあったが、分業も行われ、熟練工も早く養成される。
このような工場制手工業(マニファクチュア)こそは、近代産業のめばえであった。日本でこのような工場が最も早くから行はれたのは、京都の西陣、関東の桐生、足利等の織物業の盛な地方で、宝暦(1751年~1764年)頃から行はれた。それから数年後の浜町にも「丹後縞」の機織工場が建てられ、それが浜町商人の共同出資という今日の株式的な組織で経営されたことは、浜町人の商業的頭脳が優秀である一証拠であろう。更に桐生、足利の工場が大正末期の女工哀史的な資本主義的搾取の網にしばられた、付近の貧農の子女が労働者であったのに比べて、浜町の工場の労働者達は惣庄屋公豊に選ばれて島已兮から教えられた株主達の子女を中心とした健康、明朗な女性達であった。浜町商人の進歩的である今一つの証拠は寛延二年秋(1749)当時十軒に近い造酒屋は能率の悪い唐臼(足で踏む)で精白していたが共同出資で瀬貝(現在の古川町の赤禿道)に二軒の水車を建てた。記録に、水車上下二軒、車二丁、臼六、上下ニテ十二アリ。昼夜ニテ十数石ノ酒米ヲ精ス。大工浜町茂平次、矢部ニ始メテノ水車ナレバ村々ヨリノ見物人群ヲナス・・・と記されてある。当時の浜町は原料を農村に求め、製品を熊本に販売する近代工業都市の形体を備えていた。生産は高められ製品の規格も統一されたが固い殻の中にある封建性は市場すら自由に求める事は出来なかった。生産品は熊本の織物問屋に安く買取られ、利益はそれらの中間商人に奪われいた。これではいけない。この隘路を何とか打開しなければと浜町の商人達は努力した。その運動の先頭に立った人は、新進気鋭の商人備前屋清九郎である。
明和四年(1767)には商人ながら苗字帯刀の士分格になったいわゆる士魂商才の人であつた。浜町の商業的発展は、この人に負うところが極めて多い。清九郎の非凡の才が第一に発輝されたのは、其の頃浜町の中心といえば中町で新町は場末であった。その場末の新町に明和七年(1770)三月二〇日に前口九間、奥行八間の堂々たる二階付の居蔵(土蔵造)を建て、人々を驚した。これが現在の備前屋(通潤酒造)である。居蔵造りにした清九郎の達見は誤らず其の後数度の火災の際にもこの家は残っている。更に同年十二月には、去る明和四年六月六日の大洪水で流失した。共同で建てた瀬貝の水車を備前屋清九郎は独力で再建している。
生産者から直接消費者へ中間商人に利益を奪れていた浜町商人の切実な叫びであった、矢部の産物を直接大消費地である京阪地方へ出荷するにはどうしても船が必要である。船だと決心した清九郎は惣庄屋を説いた。その熱意に動かされた公豊は郡代を説いた。郡代から藩の要職へ「浜町の商人へ大船は不用である」と不許可の方針であった藩も、終には清九郎の熱意に動かされて許可した。欣喜雀躍清九郎は早速住吉丸と云う十七反帆千俵積の大船を買取り日頃信仰する小一領大明神の神号を戴いて小一丸と改めた。当時肥後藩の船があった川尻に備前屋支店を設けた。天明二年(1782)四月二十六日丹後縞をはじめ矢部の産物を満載した小一丸は満帆に春風をはらんで川尻を出帆した。
江戸時代のこの山の中で、工場制手工業(マニファクチュア)が行われていたと言います。すごいですね。当時の状況について奈良本辰也氏は「明和年間(1764~72)には益城郡矢部地方の製糸業は、世の注目を浴びるほどになっていた」(「日本の歴史」町民の実力・奈良本辰也著)と書き記しています。
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浜町史蹟めぐり(10) 浜町の成長(3) 井上清一
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2024-02-15T08:05
浜町は、昔から立派な為政者に恵まれたところである。初代井手玄蕃充は浜町の基を建て、五代矢部勘右エ門重元は新町の上に井手を通じて町の水利の便を計ると共に、下市や染野や瀬貝に数十町歩の美田を開いた。十四代布田保之助の偉業は、人々の熟知するところである。九代の惣庄屋間部忠兵衛公豊は、名惣庄屋の誉高く歴代惣庄屋中土木事業こそ少いが産業を振興して浜町発展の基礎を築いた人である。
肥後藩も、全国的な名産、特産の奨励の波に乗り、藩内に産業を奨励した。当時矢部郷一
帯は,山桑が多かったのでこれを利用して原始的な養蚕を行っていた。気候風土に適していたので優良な繭であったが、産額も少く技術も拙劣であった。
この養蚕に着目した間部公豊は、宝歴十三年(1763)の春、当時肥後藩に於ける蚕業技術の第一人者である島已兮(志賀小左ヱ門と云う二百石取の隠居)を、浜町の自宅に招き養蚕糸繰の方法を浜町の娘、子供に学ばせると共に村々の庄屋を集め養蚕と桑の仕立方の書一巻を、各庄屋に伝受して其の技術を指導した。新しい産業である養蚕について、町の指導的地位にある人々に自分の考えや養蚕の将来について説明し協力を求めた。商人ながら、苗字席力を許されて士分格であった、板屋清助、備前屋清九郎、萬屋弥平次、高屋徳次、天満屋惣左ヱ門等は、全力をあげて協力する事を申出た。
明和三年(1776)春、新町天満屋惣左エ門・娘さほ、古町孫市・娘きよの二名を選んだ公豊は熊本の島已兮宅に絹類機織の法を習いに派遣した。同年冬充分に技術を習得した二人は浜町に帰るや精魂こめて丹後縞を織上げ藩主に献上したるところお褒の言葉と共に鳥目二貫目を拝領した。
矢部地方の織物業と蚕業の重要性を認識した藩の為政者は、その普及と振興を公豊に命じた。そして矢部会所(惣庄屋役所)の役人である惣七(新町惣左ヱ門二男)に養蚕桑楮仕立役を命じ苗字帯刀を許し御郡代直触れという士分格に任じ、養蚕の普及に当らせた。
惣七は傑出した人物で、後に間部公豊の母方の姓を継ぎ、太田忠助と名乗り甲佐郷の御惣庄屋となり、養蚕の先進地である浜町で習得した技術を活用して甲佐地方の基礎を作った人である。
安永四年(1775)四月十五日新町茂兵衛(惣左ヱ門長男) 養蚕紙椿仕立役を仰付られて苗字帯刀を許され御郡代直触となった。公豊はこれ等の人々を活躍せしめて、大いに養蚕の発達に努力する一方、商人の力を得て織機業を盛にして丹後縞を産出した。安永年間頃は、浜町は八代の高田と共に肥後藩指定の養蚕先進地として肥後の産業界に大きな貢献をしたことは、熊本県蚕業史に詳細に記載されている。
浜町の蚕業は、丹後縞の産出でも有名であったが又、蚕種として最も良質で肥後全部に供給していた。現在矢部が製紙原料の楮の熊本県に於ける最大の産地であるのも蚕種紙の原料として種付に努力した公豊や惣七、茂兵衛の普及奨励のお蔭である。
又、茂兵衛は、安永八年(1779)一月二十二日蚕種紙改良の為、山鹿及び筑後より紙漉人を傭い自宅に於て蚕種紙を漉したが、後に水に便利な上司尾に於いて紙漉場を建てた。これが、今日の上司尾紙の始まりである。
現在は、ほとんど少くなったが轟川や千滝川の岸に点々と桑の老木があったのは、これも当時空き地を利用して植えられた桑の名残りである。かっては、藩指定の養蚕先進地であった浜町が僅か二百数十年後の今日、一坪の桑畑もないやうになった事を思うと今昔の感に耐えない。
先生は、この項になるとひとしお力が入られます。それもそうです。井上家の先祖たちが大活躍した時代です。皆さんお気づきだと思いますが、惣庄屋・間部公豊さんは、浜町の豪商たちの力を借り、豪商たちは宝暦の改革以降疲弊した矢部手永を救うために惣庄屋と一致団結して惜しみなく協力をします。「美しき日本人」の姿を見る思いがします。
ぼくは数十年前に、むかし上司尾で紙漉きをしていたという「木下さん」のお話しを聞くことができました。残念ながら、木下さんは昨年亡くなられました。ぼくがお伺いしたときは、上司尾から赤秀に移り、さらに畑の「おたっちょさん(阿蘇惟種公の墓)」の横に一人住んでいらっしゃいました。先祖は、先生が書いていらっしゃるように筑後の出身だそうです。御山支配役の木原才次さんの自宅の下に住んだので「木下」を名乗られたそうです。紙漉きの材料となる楮などは木原さんから先祖は分けてもらっていたとおっしゃっていました。ご自分も若い頃、紙漉きをやられていたということで、矢部高校生にも紙漉きを教えに行かれていたこともありました。上司尾の天満宮には、筑後から来た木下さんらの先祖が太鼓を奉納したという記録も残っています。
さて、そんなに矢部のために尽くしてくれた間部公豊さんですが、今は下市染野の墓地に眠っていらっしゃいます。そこは、共同墓地で昼でも暗く、一人で行くのも気味悪いくらいです。近くには、高橋守雄先生の先祖のお墓もあります。
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浜町史蹟めぐり(9) 浜町の成長(2) 井上清一
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2024-02-14T08:28
徳川三百年の泰平は、百姓商人の上に建てられた搾取文化であった。士農工商と厳重な階級制度を正当づける為に、儒教を官学として採用し、主人に対する忠義を道徳の根本として、思想統制のよりどころどした。
大名の子は、馬鹿でも殿様であり、百姓商人の子は優秀でも百姓であり商人であった。住居の自由もなく職業の自由もなかった。生産物のほとんどを、年貢として取上げられる農民は、士の次に位置しても生活は一番みじめであった。徳川家康でさえ代官に「百姓どもをば死ぬ様、生きぬ様にと合点致して収納申付けよ」と命令している。年貢を産出する道具として最低の生活をさせておく方針が示されてある。
農民の生活には、色々な干渉が加えられた。雨が降っても傘や高下駄を用いる事は禁ぜられた、笠蓑に草履であった。「酒や煙草をのむな」「米を食うな雑穀を食べ」等から「髪はワラにて結べ、元結を用いてはならぬ」等小さな事まで示されていた。貧窮のどん底にある農村に購買力等あるはずがない、矢部郷中七十数ヶ村の村々を持ちながら浜町の発展は微たるのであった。
三代将軍家光の寛永十六年(1639)宮原町を浜町と改められたが四十四年後の天和三年頃の浜町は、町内東西百八十間、南北二丁、竈数三十一軒の小さな町であった。その内酒屋十一軒、麹屋五軒・油屋一軒(酒屋と云ってもこの頃の酒屋は委託加工の酒を主とし質屋もやれば古着屋もやり荒物呉服等々百貨店式の店であった)現在の浜町橋口から小一領神社前付近迄が浜町の全部であった。
町で売る商品も惣庄屋の許可がなければ売る事が出来なかった。贅沢品は一切許可せず行商等も許可される商人は僅かであった。又商人が村に居住する事を厳禁した。物を買う事は最低生活の基礎である自給自足のくづれる事であるからであろう。いくら圧えられても農民は強く生きて行った。僅かな暇を見ては畑を開墾して生産を高めて行った。大名の城下町に人口が集り消費が盛になるにつれ附近の農村と厳重な禁令にも拘らず色々な品物が入る様になり、これを買う為に農民は年貢以外に金になる品物を作り出す必要に迫られた。
ここに震民の伸びる道が開かれた特殊な作物や加工作物等である。年貢と違って努力した農民は汗が変じて金を握ることが出来た。明かるい希望をもつた農民達は更に肥料や農具にも改良を加えた。
元禄頃、備中鍬が盛に使用されて全国的に開墾が行はれ、貞享頃千石通しや、千歯(脱穀機等の農具も現れ農民はこれ等の品物を買う為にも金の必要を痛切に感じた。奮起した農民達は気候土質に適した作物を栽培した。諸国の特産物が市場に現れはじめたのもこの頃である。紀州のみかん、薩摩の煙草と阿波の藍、肥後の木蝋等で全国的に織物業や林業や鉱山業が盛になって来た。藩の為政者が何でこの状況を見逃そう。藩の産業として保護し或いは援助し、又技術者を十分に取立てたりしてこの新しい産業を奨励した。農村の収入は購買力の増加であり町の繁栄の基礎である。今迄眠っていた浜町はこの農村復興の波に乗って目覚ましく発展成長して行った。
元禄十三年の頃になると横町が出来、更に町家を増す事を惣庄屋を通じて藩に願出たところ同十四年に許可あり何十五年に家を建てはじめたところ忽ち上口井手塘まで家が立列んだ。これが新町である。肥後國誌には、「当町西の溝口より、東の溝口まで六町二間、竈数七十九ヶ所あり」と記してある、宝暦年間の浜町ももうこれ程成長していた。
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浜町史蹟めぐり(8) 浜町の成長(1) 井上清一
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2024-02-09T09:54
昔、原始的な農業形態が生活の全部であった時代は、ほとんど自給自足であった。然し全部の生活品を自給する事は、大変な労力とわずらしさが伴うものである。その内に、物と物と交換して、ほしい物を手に入れる事を考えた。又甲から乙へ、乙から丙へと品物を交換して行く事によって利益を得、生計を維持して行く職業が生れ、商人が生れた。大陸から貨幣が渡来して来ると、商業は急速に発達して、社会の重要な部門となった。
鎌倉時代頃から次第に農業生産が高まり、富農や豪族の家では生産品の余りを交換に出すようになった。又大名や武士達の消費する手工業品も次第に出る様になったので、その結果生産物を交換する市場が定期的に立つ様になり、これが町や都市として次第に発達して行った。
物資の運搬に便利な舟を利用して港や入江で開かれた「津」というのがその市の名である。「津」という名前が地図に点々見られるのはこの名残りである。伊勢の津・四国の多度津・長崎の口の津等がそれである。又津というのは後では市場や町の代名詞でもあった。どの部落からも目標となる大きな森や樹の下で市が開かれた事もあった。この森の市場が固定して出来た村をいつの間にか津森と呼ぶ様になった事と想像される。
又日を定めて市場の開れたところもある。四日、十四日、二十四日に開かれたり、二日の日に開かれたりした。四日市や二日市の地名はこの名残である。
阿蘇文書の中に正平年間(1346年から1370年)阿蘇惟澄が領地矢部の荘の事を書いた文中に現在の部落の地名がほとんど記されてあるが、これから考えても自給自足とはいえ、相当の町があってそれ等の需要に供給していた事は考えられる。入佐町跡(現在の小学校附近から橋附近迄で上町、下町、塩買所、別当屋敷等の地名が残って町のあった事が判断される)や芦屋田の町跡と当時の状況から考えると存在が証明出来る。封建制度が出来て大名領が確立されるにつれて大名は武士を自分の膝元え集め又自分や武士の生活をさえる為に商人を集めたのでそこに城下町が形成された。
城下町の外に交通の要衝や大きな神社やお寺の前には祭礼や縁日のように門前市が開かれて、これが後には固定化して町や都市になった。浜町は三十五万石の大名阿蘇家の城下町として地方の尊信篤い小一領明神の門前市として発達したのである。阿蘇家の重臣で愛藤寺城代であった井手玄蕃允豊治は阿蘇家没落後浪人して愛藤寺城下に居住していたが小西行長滅亡後、慶長十八年に愛寺城が廃城となり取されてから浜町の千滝川の東岸(現在の旧会所附近)に居住した。間となく加藤清正公より矢部郷惣庄屋を命ぜられたので自宅を役所として矢部の開発に努力した。浜町は、小西の焼打後社殿は焼れて境内は荒果ていたが玄蕃允は、明神の境内の跡こそ将来の矢部郷の中心となるところであると判断し、清正公の許を得て小一領明神を現在のところに再建して移し旧境内に町を建設しはじめた。其の愛藤寺の城下町に居住していた町人孫右ェ門、長右エ門をはじめ、浜町の将来性を見越した商人が段々に集って来たので、門前市としてあった商家も数を増し、又惣庄屋の居住する為矢部郷の政治の中心地となったので増々繁昌して阿蘇氏没落後衰えかけた町も復興した。
小一領明神の宮居地であると云うので宮原町と称していた。又惣庄屋の役所のある町というので庄の町と云ったが、後では大宮司家の「浜の館」のあったと云うところから浜町と云う様になった、中町の事を古町と云うのは浜町では中町が一番古い町であるからである。
「津」は舟着場に多い地名だと言うのはよく聞きますね。「津留」なども、まさしくそうですね。先生は、「どの部落からも目標となる大きな森や樹の下で市が開かれた事もあった。この森の市場が固定して出来た村をいつの間にか津森と呼ぶ様になった事と想像される。」と書かれています。益城町の「津森」なども、津森神社の社伝によれば「この地は、もともと海が近い土地でありましたが、神武帝の霊体出現によってたちまち森となったと。」と伝えられています。
昔は、浜町でも三斎市が開かれていたそうです。三斎市とは月に三回開かれる市のことで、浜町では7のつく日がその開催日であったといいます。特に2月7日は初市、7月7日は七夕市、10月27日は大市と称されたそうです(「矢部町史」より)。
そもそも、市と神様とは縁の深いものです。中世後期の市は、税が免除され世俗での社会的な関係からも解放される一般の空間とは異なる性格の場でした。市場は単なる交易の場ではなく、宗教的な側面と不可分な側面を有していました。すなわち、市場は非日常的な場で神を祭ることで人々が自由に取引ができるという場でした。
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浜町史蹟めぐり(7) 小一領神社(4) 井上清一
https://www.town.kumamoto-yamato.lg.jp/ijyuuhp/a0022/Oshirase/Pub/Shosai.aspx?AUNo=286&Pg=1&OsNo=231
2024-02-08T06:13
本来ならば今回は、「浜町史蹟めぐり(6) 小一領神社(3)」となるべきなのですが、あいにく資料が残っていません。よって、飛ばして次を紹介します。
栄佑盛は歴史が繰返す鉄則である。全盛を誇つた阿蘇家と惟豊公、惟将公を経て惟種公(上畑のおたっちょさん)は二十四才で死去され長男推光公は僅か三才で大宮司の職を継がれた。
阿蘇家に昔日の面影なく秋風落莫の様子は現れていた。阿蘇家の衰運を見て取た薩摩の島津義久は好機来れりと天正十三年八月、一万五千の大軍を以て怒濤の如く肥後に侵入した。阿蘇家旗下の諸城相次で落城或は降り阿蘇家の神領は島津の占領するところとなつた。
惟種公夫人は当主惟光・惟善の二兄弟を供い僅か数名の家臣に守られて目丸の山中に難を避けられた。中央にあって島津家の近隣侵略を見ていた豊臣秀吉は度々教書を以て島津義久を論したが一向に応じないので、天正十五年三月自ら三十万の陸海の兵を率いて島津征伐に出発した。流石の義久も秀吉に降参したので旧領のみ与えて肥後全土は部下の佐々成政に与え治めさせて京都へ凱旋した。
この時、惟光公は僅か矢部に於て百町を与えられたのみであった。これは秀吉の阿蘇家に対する武断的政策で再び阿蘇家が兵力を擁して政治上の干渉をする過程を断ち武家と神とに分離する目的を以て行れたものであろう。これより大宮司は武力を失い神として存在するようになった。
間もなく成政は、政治上の失敗により秀吉の怒に触れて切腹を命ぜられた。其の後天正十六年四月秀吉は肥後を二分して加藤清正と小西行長に与えたので行長は宇土城を築いて宇土、益城、八代を治めた。重臣結城弥平次是俊に三千石を与え愛籐寺城代として日向境の圧えとすると共に矢部を治めさせた。天文十八年フランシスコザビエルによってキリスト教が伝来して以来全国に普及されてこの教を信ずる者が多かつた。小西行長も熱心な信者で天正十二年に洗礼を受け名をドン・オーギススタンと称えた。
旧主を懐かしむは民の常である。然も新来の領主はヤソと云い異国の神の信者である。白眼視するのは当然であろう。領民は自分達の祖先神を罵倒するキリスト教を嫌っ当時農民の指導的立場に居た僧侶や神主達も協力して異国伝来の教に反対した。こうなると神の愛を説いて新しい政治を目ざしていた行長の理想は根底から覆されざるを得ない、激怒した行長は断の処置を採った、自分の信仰に反対する根元である神社、仏閣を焼払った。阿蘇三ヶ社の一つである宇土の郡浦社や西の高野山と称された勅願書の釈迦院の大小三十六坊が焼かれたのもこの頃である。結城弥平次も熱心な信者で行長の命に依り愛藤寺(天台の古刹)や男成神社を焼き払った。小一領明神と文緑四年焼討されて宏壮な社殿や宝物や神号の由来である千壽丸公奉納の鎧も焼失した、御神体のみ事なきを得たが境内は荒廃して狐狸の住家となった。
慶長五年関ヶ原の戦に敗れた小西行長は捕えられて斬られ、同年十二月小西の旧領であった宇土、益城、八代の三郡は清正に与えられた。肥後一国を領有した清正は意を民治に用い土木工事を起こして河川の改修、道路の新設等目覚しく活躍した。慶長十八年現在の旧会所附近に居住していた井手玄蕃允豊治を召して矢部郷惣庄屋役を命じた感激した豊治は第一代矢部郷惣庄屋として居宅を役所とし民治に努力した。
豊治の念願は小一領明神の再興であった。又豊治は自給自足の状態であった矢部に商業と云う新しい経済機構を取入る為に交益の場所たる町を建設して矢部の政治経済文化の中心とするにあった。荒廃した社殿の付近(新町)平坦で、将来町の中心となるところであると着目した豊治は清正の許を得て現在の場所(中町)に元和六年三月起工し同七年八月十日に木の香も新しく社殿を竣工した。其の後安永八年現在の社殿に改築された。
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浜町史蹟めぐり(5) 小一領神社(2) 井上清一
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2024-02-07T08:11
平安末期は、治安は乱れ、富豪や地主は私兵を蓄えて或は豪族となり、又は武士となって自衛の方法を講じ。時代の波は神職たる大宮司家を神領を維持する為に武門となした、部族神の直系である、大宮司家の結合は、武家の物質的な結合による主従関係でなく、血の団結であり信仰の団結であった。この団結は偉大な力を発揮した阿蘇氏が武門となってより天正の没落を約六百年、世は激しく変化したが、阿蘇氏と領民の間に微動だにしなかった。土御門天皇の承元年間惟次公が阿蘇より矢部に移住されてより、栁本明神は益々尊信篤く、神事は盛大に厳に行われた。文永弘安の元軍来寇の時、惟景公は長子惟恭公と共に武運長久を祈願して出征された。又建武中興や、南北時代に官軍として奮闘した惟直、惟成、惟澄の諸大宮司も出征の度毎に威儀を整え社前に額ずきそして勇躍戦場へ向われた。栁本明神は、武神として弓矢の神として崇敬された。塩井手の大欅は幾度も出陣する将士の後姿を見送った事であろう。
御船城主安房守房行は、阿蘇家累代の家臣であったが、薩州島津義久に内通して、謀判の企のあることが判明した、時の大宮司惟豊公は、激怒され誅伐の大将として嫡男千寿丸(17才)に甲斐宗運親直を添えて差向けられた。天文5年11月10日柳本明神の社頭に於て出陣式を兼ね、戦勝祈願が行われた。陣幕を引廻らし中央に千寿丸公、傍に甲斐宗運、左右には阿蘇家の重臣をはじめ諸城主、部將等威儀を正して列座している。千寿丸公は召替の鎧一領を奉納して参拝された。神主男成監物充友竹、鎧姿も厳しい儘、願文を読み始めると、皆一同に平伏した。其の時不思議にも神殿俄に鳴動して白羽の鎬矢一筋高く鳴り響いて御船の方へ飛去った。千寿丸公は「出陣の祈願にかる不思議を見ることは神明の感応である。敵の大将房行が矢に当る験である。勝利疑いなし」と、申されたので、将兵一同勇気百倍した。か々るところに、矢部庄司井手清右エ門豊宣が、酒肴と共に赤飯の握飯を家人に担せて「若君の初陣をお祝い申す」と持参した。千寿丸公は非常に喜ばれて先ず神前に供え、やがてそれを下げ諸将士に分け与えられた。甲斐宗達は、軍扇をさっと開いて立上り「いで(井手)やいで(井手)御船の城の敵の首我が手の内に握り飯かな」と舞いながら三度唱った。当意即妙の宗運の舞に御大将はじめ諸将も兵も歓声をあげた。勝鬨、千寿丸公の号令に全軍喉も裂けよとばかり、エイエイオウーと三度勝鬨をあげた。間もなく白馬にまたがった千寿丸公の采配颯々と動くや宗達が吹鳴す蝶貝を合図に勝山城(御岳村横野)主甲斐将監信光(宗蓮の弟)の手勢500を先手とし、黒仁田豊俊守、犬飼備後守、篠原丹波守等の手勢2500余、歩武堂々御船へ進発した。柳本大明神が、小一領大明神と神号を改められた由来は、千寿丸公か召替の小さな鎧一領奉納されたので、小一領大明神と稱えられた、
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山都町郷土史伝承会 会員募集案内
https://www.town.kumamoto-yamato.lg.jp/ijyuuhp/a0022/Oshirase/Pub/Shosai.aspx?AUNo=286&Pg=1&OsNo=229
2024-02-05T11:49
山都町郷土史伝承会では、地域の歴史や文化に興味をお持ちの皆様を対象に、会員を募集しております。本会は、山都町及び周辺地域の歴史や文化財について調査・研究・発表を行い、会員相互の研修に努めながら、山都町の文化向上に寄与することを目的としています。募集要項:1. 定例会
毎月第2土曜日に、13時30分から15時まで、山都町立図書館ホールにて行います。参加費は年会費5000円で、体験入会も歓迎しています。定例会では会員同士の交流や研修を通じて、地域の歴史や文化について深く学び合います。2. 事業内容:(1) 定例会(2) 野外研修会の開催(3) 講演会の開催(4) 郷土史関係図書の編集出版(5) その他必要な事業入会方法:
興味をお持ちいただいた方は、定例会へのご参加や詳細な情報のご希望は、以下の連絡先までお気軽にお問い合わせください。お問い合わせ先:
メールアドレス:akira861@ruby.ocn.ne.jp山都町郷土史伝承会では、皆さまと一緒に歴史や文化を深く探求し、地域の発展に寄与していくことを心よりお待ちしております。ぜひ、ご参加いただき、共に楽しいひとときを過ごしましょう。
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浜町史蹟めぐり(4) 小一領神社(1)井上清一
https://www.town.kumamoto-yamato.lg.jp/ijyuuhp/a0022/Oshirase/Pub/Shosai.aspx?AUNo=286&Pg=1&OsNo=228
2024-02-05T07:59
山陰の出雲大社が出雲族の部族神でその直系子孫の家が出雲大社の宮司である如く、阿蘇神社の大宮司が阿蘇大明神の後裔で、千家と共に神孫直系の家柄として皇室と共に連綿として今日に到つたことは、古い政治形体である祭政一致の結果であろう。
阿蘇族の祖先神崇拝による信仰的の団結と、阿蘇族の総本家とも云うべき大宮司家の神領統治による領守的地位と更に之に鞏固(きょうこ)にした宗家尊敬の封建性とが、二千年以上百代にわたる繁栄を保ち得た原因であろう。
太古九州は三つの部族によって分割されていた。北九州には住吉三神及綿津見神(海神) を部族神と崇拝するその子孫である。阿曇氏(あずみうじ)と其の一族が航海に長じ海上権を握り、遠く三韓や支那迄進出して大陸文化を伝えた福岡の遠賀川一帯がその中心である。
一方九州南部には霧島神宮の瓊々杵尊、鹿児島神宮の彦火々出見尊の後裔が隼人部族を統卒していた。九州の中央に居住した阿蘇族は大体肥後一円及豊後の一部、日向の一部等を占めていた。これは部族である阿蘇神社の分布状態によって知ることが出来る。
当時次第に勢力を増強しつ々あった大和朝廷は九州に於ける勢力拡張の根拠地として阿蘇及び阿蘇族に着目したことは当然であろう。
かくして神武天皇の皇孫・健磐龍命(たけいわたつのみこと)は九州鎮護の大任を帯び阿蘇へ下られ、阿蘇族の草部吉見神の娘・阿蘇都媛(あそつひめ)をむかえて妃とされ阿蘇郡宮地附近に宮居を定め国土経営に当られた、
即ち阿蘇大明神である。其の子・速瓶玉命(はやみかたまのみこと)は阿蘇国造に任ぜられ阿蘇族を率いて皇化にまつろわぬ土賊共を平げ人民撫育に力を盡され、又其の子・惟人命(これひとのみこと)に命じて祖先を祀らしめられた。これが現在の宮地の阿蘇神社の起りで惟人命は大宮司の始めである。
大化改新後筑紫の一国であった阿蘇国は益城と共に肥後の一部となり、国造であった阿蘇氏は郡司として阿蘇・益城の二郡を領し神職を兼ね祭政二権を掌握して九州中央に地位を固めた。その頃阿蘇健軍・甲佐、郡浦の各神社を阿蘇四箇社と称しその神領は五郡(阿蘇・上下益城・飽託、宇土)に及び八千町余であった。
日本の中央部である京都では平安奠都(てんと)以来久しく大平が続いたので藤原氏一門は詩歌管絃に其の日を送り政治を頼みる者もなかった。随って地方政治も大いに紊(みだ)れ地方長官として赴任した国司も重税を徴収して私腹を肥し一日も早く京都へ帰る事のみ考える有様であった。都では藤原道長が関白としてこの世をばの歌通り藤原氏全盛を謳歌していたが政治堕落は不逞の輩の横行となり良民は苦しみ藤原氏の政治を怨む声はいたるところに起つていた。乱世と藤原氏衰亡の兆はもう現れていた。諸国の豪族達は自衛の方法を講じなければならなかった。
浜町に阿蘇大明神が勧請せられ神社が建立せられたのは丁度この頃である。後一條天皇の御宇、寬仁2年(1018)である。大宮司家が乱世に備えて領内守護の目的を以て阿蘇大明神を勧請したことは部族の団結を計ると共に宮司を中心とした権力集中の一方策とも考えられる。兎に角名実共に阿蘇族として浜町がその勢力圏内に含められたのは神社の建立に始まる底津磐根(そこついわね)に宮柱太く最初に建立された位置は本魚屋呉服店と川万屋旅館の中間で裏通に近い石囲の中に南天を植えてあるところが神殿の中心であると伝えられる。
その附近に柳の巨樹があったので神号を柳本大明神と稱えた、境内は広大で東の御手洗である瀕具の大楼の下の清水より西の御手洗である塩井手大欅の清水迄が境内であった。
天然記念物の欅も当時は小さく勿論浜町もなかった鬱蒼樹木の中を清水が流れる荘厳な神域であった。
壮大な古代史ですね。出雲族、阿蘇族、阿曇氏、隼人部族が出て来て、「底津磐根(そこついわね)に宮柱太く」などと祝詞に出てくる詞を使われているところなんて、私が知る井上先生とは、また別の一面を感じました。