火伏地蔵  祭日 8月第3土曜日・日曜日
 龍専寺境内の左手に建つ観音堂に祀られていた地蔵が永禄6年(1563)に新町の北側に移され、さらに承応年間(1652~55)に町の中央に地蔵堂が建立されたという。
 地蔵祭で造物がいつ頃から始まったかは分からないが、残されている「地蔵祭新若日記録」と題する文書によれば、以前は通物といい、安政5年(1858)に新若が参加していることが窺われる。新若とは新町上組・中組、下組を、元若は田町、仲町、古町を指している。安政5年には大江山、文久2年(1682)には、八幡太郎、さらに五条の大橋の弁慶と義経など歴史上の人物や物語を通物として造っていたようである。明治8年(1875)8月19日付けで当時の白川県令安岡良亮宛に馬見原町の戸長と区長が「当町火伏祭トシテ先年ヨリ銘々所持之諸雑具ヲ以造物仕来候」火伏せ祭造物願を出している。この頃から通物から造物へと呼称を改めたことと、銘々が所持している物を利用して造物を造っていることが分かる。以来、現在に至るまで、所持している雑貨を利用して造物を造っている。
2020年06月04日更新