まずは,相藤克秀さん(農業)の2016年2月25日熊日朝刊「きようの発言」への投稿を紹介します。

 

以下引用はじめ

 小西行長が築城した近世宇土城跡の案内板には、行長が治めた土地の東端は矢部(現山都町)とあります。矢部には当時、愛藤城があり、城跡の周辺は今も相藤寺集落と呼ばれます。愛藤寺城代は結城弥平次。行長が関ヶ原で敗れ、処刑されたことで矢部を去っています。

 

 約25年前、私に「それからの弥平次」を教えたのは長崎市の 「日本26聖人記念館」館長で、 イエズス会のパティコ·ディエゴ神父でした。出会いの時、名刺を渡すと「あいとうさん」と読まれたことに驚きましたが、「何度も相藤寺集落に行った」 と聞き、合点がいきました。

  行長と同じく、弥平次もキリスト教の洗礼を受けています。神父の研究テーマは、日本のキリシタン史。愛藤寺城跡からは十字架をあしらったクルス瓦も出ていて、神父が相藤寺集落を訪れていても、何ら不思議はありません。 神父との交流で、矢部を出た弥平次が1602年、有馬家から8千石を与えられ島原半島の金山城に入城したと知りました。今年の正月に金山城跡に行くと、弥平次の入城400年を記念し、地元の郷土史研究会が2002年に建てた高さ5メートルほどの十字架がありました。

 案内板に愛藤寺城跡の表記もあり、ほっとしました。弥平次は長崎で大切にされていたのです。歴史研究は現地に行くことが大事だと感じた次第です。

 スペイン出身で日本での布教に生涯をさげた神父は08年、 86歳で逝去されました。流ちょうな長崎弁が思い出されます。 

以上引用終わり

 

 実はぼくも、相藤克秀さんやパティコ·ディエゴ神父のことは、井上清一先生から生前にお話を伺っていました。

 

 相藤さんの先祖は,その名が示すとおり相藤寺のご出身で,現在松橋にお住みだと聞いています。

 

 パティコ·ディエゴ神父は、それはそれは熱心な結城弥平次の心酔者で、日本に帰化して「結城弥平次」と日本名を名乗られたほどだと井上先生から聞きました。

 

 神父は、何度も愛藤城を訪ねられたようですが、井上先生は神父のその目的は島原の乱の際に島原城内で生き残ったものの中に小峰出身の者がおり、その情報を求めてやって来ていたのではないかとおっしゃていました。

 

 また神父は、愛藤城跡から発掘されたクルス瓦を大変欲しがっていて、今度出たら分けて欲しいと井上先生におっしゃていたそうです。

2021年10月22日更新