(前回から続く)

 次に鎌倉時代の大宮司についてですが、当時は南郷を本拠地としていたことは確かです。阿蘇惟泰がその子惟次に正治2年(1200)所領十ヶ村を譲与していますが、この村々は阿蘇南郷にあり、益城郡にはありません。大宮司家の勢力は甲佐社は別として益城郡には延びてはいません。

 

 そして、元弘3年(1333)の「正慶乱離志(博多日記)」には、菊池武時に加わって博多の鎮西探題を攻めた阿蘇大宮司が逃げ帰ったというので北条勢が討伐に阿蘇に入り、南郷の大宮司館を攻めたとあります。この館は二本木遺跡・祇園遺跡とみられ、平安末から南北朝初期までの館跡です。これらの状況から、阿蘇大宮司家は鎌倉時代南郷を本拠地としていたとみられます。

(次回へ続く)

 

2021年09月08日更新