(3) 伝説的な名称その1(鬼八伝説)

 次に阿蘇には、鬼八(きはち)伝説というものがあります。阿蘇大明神建磐龍命(たていわたつのみこと)が阿蘇の往生岳の頂上から、阿蘇市の尾が石の「的石」を的に、弓の練習をされていました。家来の鬼八は、大明神が放された矢を集める役をしていましたが、往生岳と「的石」との間は、直線距離で4キロ以上もあります。大明神が矢を射られるたびに、何度も往復した鬼八は、くたびれて矢を足の指に挟んで大明神に投げ返しました。これをご覧になった大明神は、鬼八を捕らえて懲らしめんとされました。鬼八は、捕まったら大変とばかりに、阿蘇谷から南郷谷一帯を逃げ廻りましたが、最後に矢部で大明神に捕まってしまいました。大明神は、持っておられた大きな弓で、鬼八の尻を叩かれたところ、あまりの痛さに鬼八は、八つもおならを出してしまいました。そこで、その辺一帯を「ヤベ」というようになりました。

 

 この伝説は、一見矢部を揶揄したかのような伝説ですが、たいへん面白い伝説だと思います。と申しますのは、私の師匠である郷土史家の井上清一先生(平成20629日亡)は「この鬼八は、矢部地方に稲作文化を伝えた渡来人ではないか?」と推測されます。

 建磐龍命(たていわたつのみこと)は、神武天皇の孫に当たります。いわゆる大和朝廷側の勢力です。稲作文化を伝えた渡来人が、大和朝廷の勢力下に治められる過程をこの伝説が伝えているとすれば、いろいろなことが想像されます。

 清和地区古野原から出土した石剣は、朝鮮半島で作られたものだそうです。しかも、実用品でなくて祭祀用だそうです。もしや、この鬼八一族が朝鮮半島から持ってきたものではないか!?

 

 井上先生は、講義の中で、「矢部郷に於ける稲作文化の発祥地は、南外輪山の麓である鶴ケ田から菅尾にかけての一帯だ!」と、おっしゃっています。南外輪山に降り注いだ雨は、緩傾斜を伝って緑川へと流れて行きます。平坦地と違って、稲作に必要な水は、「ヌキ」と呼ばれる横穴を掘れば容易に得ることでき、必要がなくなれば、田の畦を切ることにより、これまた容易に排水を行うことができます。この地域は水耕栽培に適した土地です。また、この地域には、高千穂野(たかじょうや)と呼ばれる所があり、近くの幣立神宮周辺には神話的な伝説が多く残っています。

2021年09月05日更新