前回、興国4年(1343)豊後の大友義通が兵3000余で矢部の諸城を攻めた際に,笹原城・勝山城(横野)はそれぞれ兵500余をもって防戦し,地雷火を製造して陣所を爆破しようと待ち受け,そこへ来た1000名の大友軍を爆破して火中の灰とした話をしました。

 

 それに関連して、過日「文化の森」の職員さんから、熊本市内の来館者が次のような質問をされたので教えてくださいとの連絡が入りました。

「焔硝」について、

○矢部手永における古文書関係のものがありますか。

○番所での管理ではなかったか

○年貢の代わりで出していたのでは

○生産量、分布図的なものがあるか

○硝石の有るところやその製造など

 

 そこでぼくは、冒頭の「千人灰塔」の話を紹介しました。この戦いの時の地雷火に焔硝が使用されました。川野には、江戸期に焔硝窟と称した火薬製造の窟があり、地元の郷土史家坂本常人先生は、硝煙窟について次のように記していらっしゃいます。

 

煙硝窟

 横野滝の下方百二・三十米位の北面崖の中腹にある。窟は高さ四・五米位か相当に土に埋まっているので適確には判らない。

 この窟は、細川時代に藩の要求により煙硝の原料をつくった処である。草を積み獣の内蔵等発熱□を混入せしめ発酵させて硝石の原料をつくった処である。上の古文書は昔島木の地区に中島村と称する村があってその所で出来た白煙硝を白糸の鶴(津留)まで馬5疋で運び役人が受取の証として渡した差紙という公文書であり、昔日知人の山田良徳氏宅を訪れし折いただいた文書である。山田氏の処には煙硝小屋があり纏ると舟で川尻に送った様である。川尻よりこの文書では□崎製法所に送りそこで完成品となった様である。上の古文書は大変立派な筆跡であり達者な人の筆跡と思ふ。横野の煙硝岩屋の製品も当然乍鶴に運び納めたのであろう。(□部分は判読不明)

 

 焔硝の話のついでで、思い出したことがあります。それは、井上清一先生と岩尾城を見学し矢竹の茂る間道を縫って桐原に降りた時の話です。

 

 降りた先には、廃墟となった畜舎がありました。先生は、その畜舎の壁や床を指して「これが火薬の材料となる焔硝です。」と教えて下さりました。白い粉の様なものがその床や壁には付いていました。焔硝が、動物の排泄物に含まれる尿素、またそれが分解することによって生じたアンモニアなどの窒素化合物を、自然環境下に存在するバクテリアが分解する過程でつくられることをこの時初めて知りました。

2021年09月18日更新