御廟は、道の駅「通潤橋」入口前の県道を挟んだ反対側に位置しています。この御廟は、大宮司阿蘇惟豊公の墓所です。この惟豊公の時代が、肥後の大半を領地として支配し阿蘇家が一番栄えていた時代だと云われています。家臣には、名将甲斐宗運がいました。惟豊公は、天文18年(1549)に朝廷の求めに応じ御所修理料を献金し従二位に叙されました。
 天文18年というと、美濃国の守護大名土岐頼芸が重臣である斎藤道三によって追放されたり、甲斐の武田信虎が嫡男武田晴信(信玄)から追放された年です。応仁の乱で京都は焼け野原となり,かって全国に数百数千とあった皇室や貴族の荘園も有名無実となり,年貢もほとんど上がって来なくなっていました。ときは、まさしく下克上で、朝廷は御所の修理もままならぬ時代でした。
 後奈良天皇の命を受け勅使中納言烏丸光康が矢部に下向したのは天文13年(1544)のことでした。この時、惟豊公に従三位が贈られました。それまで惟豊公は、正四位下でしたので(正四位下→正四位上→従三位)と2階級特進しことになります。
 また,この時に惟豊公は「松風」と伝えられる肩付茶入れも賜りました。これは,阿蘇家の家宝とされましたが,天正の阿蘇家没落のときに目丸の山崎家にかくまってもらったお礼として山崎家に贈られ,今もなお山崎家の家宝として伝えられています。
 勅使の中納言烏丸光康が持参した後奈良天皇の綸旨には「上階の事,天の憐れみあるとこなり,禁中御修理方,別して忠節を抽(ぬき)んでらるれば,重ねて猶(なお)恩賞を行わるべし」とありました。
 すなわち、寄付すればもっと上の位を与えると言うので、惟豊公は天文18年(1549)に御所修理料一万疋を献金し従二位に叙されました。一万疋というのが現在の価格でいくらなのか難しいですが、一説には1000万円以上とも言われています。この功績なのか烏丸光康も後に中納言から大納言に昇格しました。
 烏丸光康が矢部の「浜の館」にやって来たときに,旅の慰めに案内したところが「五老ケ滝」です。中納言様が「ご覧じた滝」が「五郎ケ滝」に転訛したとも言われています。
 ところで、従二位とはどんな地位なのでしょう? 古代の律令国家では「官位相当」といって、官職と位階の対応原則が定められていました。例えば、従三位は中納言、正三位は大納言、従二位は左大臣・右大臣・内大臣の位です。以上は現在の閣僚クラスになります。
 一方地方官は、大国(肥後は大国です)の守(かみ)が従五位の下で、今日の県知事クラスです。よって、従二位というクラスはとても高位です。
 皇室にとっては官位贈呈は大きな収入源です。一方、地方の武士にとっても高位高官は家の権威付けのために欲しかったのでしょうね。ただし、阿蘇家は元々古い家柄ですから、他の武家より破格の昇格です。例えば、同じく寄付をした相良義滋の場合が従五位下で、大友義鑑が従四位下、今川義元従四位下に過ぎません。
 ちなみに、勅使として下向した烏丸光康に対しても惟豊公から謝礼として金子千疋(十貫文)が贈られていますので、皇室と武家との仲介をした貴族にとっても大きな収入源になったものと思われます。
 官位は本来朝廷から直接授与されるものでした。ところが、武家政権が成立すると、源頼朝は御家人の統制のため、御家人が頼朝の許可無く任官することを禁じました。源義経が追放されたのもこの禁を破ったからです。後に武家の叙位任官は官途奉行の取り扱いのもと、幕府から朝廷へ申請する武家執奏の形式を取ることが制度化され、室町幕府もこの方針を踏襲しました。
 ところが、戦国時代になると幕府の権力が衰え、大名が直接朝廷と交渉して官位を得る直奏の例が増加することになります。朝廷が資金的に窮迫すると、大名達は献金の見返りとして官位を求め、朝廷もその献金の見返りとし、その武家の家格以上の官位を発給することもありました。
 その一方では、この時代には朝廷からの任命を受けないまま官名を自称(僭称)する例も増加しました。織田信長が初期に名乗った上総介もその一つだと言われています。。
 また、官途書出、受領書出といって主君から家臣に恩賞として官職名を授けるといった風習も生まれました。阿蘇家の家臣の中にも何々守と名乗る人々がたくさん居ます。
 ここ御廟に立ち瞼を閉じ,勅使下向の477年前に思いを馳せると、阿蘇家が一番栄えていたときの惟豊公や甲斐宗運そして烏丸中納言らの笑い声が聞こえてきそうです。
2021年10月23日更新