矢部高校第二体育館と駐車場に挟まれた一角にある「お梅さん」と呼ばれる木彫りの座像が石祠の中に祀られています。
 『「肥後国史」の中に、「小さな竹林の中に梅が一株ある。里の俗説に「御梅殿」と言われる婦人で阿蘇家の息女とも侍女だったとも言われているが、その墓地だ」とあります。乳の出ない女性に効能がある神様とも呼ばれています。
 このお梅さんについては、「弾正さんとお梅さんが不義をし死罪になった。死後も別々の場所に葬られた」と云う伝承があります。しかし、元矢部高校校長であった小崎良伸先生は、当時の校長室便りのなかで、この「お梅さん」について次のような説を述べられています。(以下引用)
 「もしかしたら、浜の館から目丸の屋敷に惟光を誘った『小宰相局』その人の神像および墓の可能性もある。なぜならば、『小宰相局(こさいしょうのつぼね)』と言われる、平家物語や能・琵琶・謡曲にも描かれる悲劇の女性の運命とも重なるからである。平家物語に描かれる小宰相局は、平家の大将『平通盛』の妻で、小野小町と並ぶ絶世の美人と誰(うた)われた。一族とともに屋島へ落ちていく海上で、愛する夫が『一の谷の合戦』で討ち死にしたと聞き、夫恋しさのあまり、腹に宿した通盛の子と共に、海に身を投げ、弱冠十九歳で命を絶ったと言われている。
 一方、浜の館の『小宰相局』も、命をかけて主君を目丸に誘った。『肥後の鼎灯』の脚本を書かれた前山都町立図書館長・前田和與氏の調査では、秀吉が島津征伐を終え引き上げる時、『小宰相局』は秀吉を福岡の箱崎に訪ね、秀吉から三百町歩の領地を安堵された朱印状をもらってきた(要約)』…とされる。(神代から宇宙へ 山都ものがたりの夜明け[検証一阿蘇家入領八百年〕報告奮より)
 浜の館から惟光が逃れる時、家臣団は四分五裂したとされる。そして二年後、薩摩勢が秀吉から追われた後、惟光は浜の館に帰還することなく、佐々成政の隈本城に保護されてしまう。幼少の大宮司は隈本城内に預かりの身となった。そして、阿蘇家家臣の男達が沈黙を守る中、大宮司の一女官が時の天下人『秀吉』にお目通りを願い、それがかなったことも不思議である。おそらくは、秀吉が人一倍好奇心が強いことに着目し、平家物語の『通盛』で高名な美女『小宰相局』という名前を急速付け、秀吉にお目通りを願つたのではないか。阿蘇家の三百町歩の領地の安堵という大手柄をたてた小宰相局は、秀吉の期待に添うような美人だったのだろう。
 その後、『国集一揆』の不手際から佐々成政は切腹を命ぜられ、隈本城には加藤清正が、宇土城には小西行長が入り、清正が兄惟光を、行長が弟惟善を預かった。しかし惟光は、秀吉の朝鮮出兵に反対して起こした『梅北の乱』に関連したと冤罪を着せられ、秀吉から切腹(斬首説もある)を命ぜられている。小宰相局は、惟光の最期まで、その側にお仕えしていたものと思われる。
 小宰相局の命をかけての直訴により阿蘇家の存続はかなったが、惟光は幼少の身で悲劇的な最期となってしまった。小宰相局のその後についての伝承はないが、おそらくは、思い出の地『浜の館』に帰リ、生涯を送ったのではないか。目丸・屋敷の山崎家に小宰相局の墓と伝承されるものがあるそうだが、墓碑銘等で確認はされていない。想像をたくましくすれば、小宰相局が亡くなった後、浜の館付近に残つた阿蘇家の関係者が、小宰相局の面影を神像に刻ませ、祠に納め、宝膣印塔を建立したのではないか?と夢想する。内大臣・平重盛、小松神社、伝安徳天皇墓などの平家の落人伝説は、矢部郷に深く入り込んでおリ、人々は平家物語や謡曲を通じて阿蘇氏と平氏の運命を重ねて見たのではと考える。そして、案外、小宰相局の本名は『梅』だつたのではないか。木彫リのお梅さんの十二単の姿は、秀吉にお目通りを願った時の小宰相局の一世一代の思い出の姿ではなかつたか。」
 上述のように小崎先生は、「お梅さん」は、実は小宰相局ではないかとの説を述べられています。
 さて、今回の「阿蘇家の足跡を訪ねて」は、主に浜の館周辺に遺る史跡を訪ねました。もちろん、山都町に遺る阿蘇家の史跡はこれだけではありません。浜町周辺だけでも、まだまだあります。山都町では、フットパスコースの設定が検討されていると聞きます。ぜひ、郷土の歴史を巡るコースもその中に加えていただきたいものです。
2021年10月19日更新