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  さて、布田神社をあとにして、田吉方面へ向かうと五老ケ滝入口に歌碑がありました。「この径も この滝茶屋も なつかしや」これは、通潤橋架橋に携わった藤森茂平の子孫の「藤森功樹郎」氏の句で,拓本が通潤橋史料館にあります。

 さらに、進むと三叉路付近に田吉道路改修祈念碑が建っています。この祈念碑の裏面の碑文を読むとこの道路が昭和7年から10年までの4カ年の工事期間を経て改修がなされたことがわかります。そして、これにも多くの寄付者の芳名が刻まれていました。

 この田吉道路改修祈念碑のすぐ近くに六地蔵石幢が建っています。正面には「志・文化六己天八月吉日」と刻まれています。文化6年は1809年です。今から、202年前ですね。六面には、地蔵菩薩が彫られているはずですが、風化して余りはっきりとは見えません。拓本をとったら、どんなお姿か拝めるだろうと思います。

 山都町内の六地蔵で有名なのは、大川の六地蔵や井無田の六地蔵ですね。何れも町の文化財に指定されています。大川の
、文明13年(1481)と言いますから今から530年前のもの、井無田の大永7年(1527)と言いますから今から484年前のものです。そんな古い時代から六地蔵は信仰されて来ました。

 それでは、六地蔵とは何か?清和村史から引用させて頂きますと、「地蔵菩薩は本来一体である。しかし、六道(天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)に迷う衆生を救済するために、六道へ分身になって現れるという。地蔵菩薩の威力は、ロウソクの火を分けるように、力が減じられることはない。六地蔵石幢とは、このようなお姿を、象徴的に顕した石塔である。」と説明されています。

 この五老ケ滝の上の六地蔵には、おもしろい話しが伝わっています。寛政8年(1796)に矢部手永下田所村戸屋野に長じて日本一の大男となった大空武左衛門と言う力持ちの男の子が生まれました。同時代に同じく矢部手永の山田村に覚助という碁盤を据えたような格好なので角盤と呼ばれる力持ちがいました。ふたりは、良きライバルで、お互いにことあるごとに力自慢をしていました。ある日、角盤が戸屋野へ行きましたが武左衛門は留守でした。仕方なく角盤は帰り小原村まで来ますと、五老ケ滝に行く道端の六地蔵が目に付きました。「よし、この笠石を下ろして、俺が来た印にしておこう」と笠石の30貫(
112.5kg)ばかりを下ろしているときについ手が滑って笠石を落とし、その隅を欠いてしまいました。角盤は、しまったと思い誰にも見つからぬよう急いで帰りました。小原の人たちがこれを見つけて、大騒ぎをしていましたところ、町からの帰りにこれを見た武左衛門は、「これは角盤の仕業だな」と分かりましたが、誰にも話さずに一人で笠石を元の位置に載せて自宅へ帰りました。この大空武左衛門は、のちに藩主細川候から扶持を与えられお殿様のお供で江戸へ上りときの将軍徳川家斉とも対面したと伝えられています。
そんな、物語が伝えられる六地蔵の笠石を私も抱えてみましたが、ビクともしませんでした(笑)。

2018年04月30日更新