図1 「浜の館」と呼ばれた阿蘇大宮司の館跡。ここは、五老ケ滝川が外堀で学校敷地をとりまく水路が内堀の二重環濠となっている。


 1973年から1976年にかけて、この「浜の館跡」の発掘調査が行われた。その陣頭指揮に立った県文化課の桑原顕彰先生及び当時発掘調査に立ち会われた私の師匠である井上清一先生から聴いた話をここでは紹介しする。

 

 阿蘇氏は、阿蘇谷を根拠地とする豪族だった。それが、時代を経ると共に段々武士団の棟梁として成長を遂げた。鎌倉時代に入ると、このような阿蘇氏の成長に伴い、その勢力も阿蘇谷から南郷谷へ、そして外輪山を越え、小国、矢部へと広がって来た。矢部に大宮司の本拠地としての「浜の館」が設置されたのは15世紀末~16世紀頃だと推定されている。

 

そして大宮司兼武士団の棟梁としての地位を戦国期まで保持し、近世以後は阿蘇神社の神官として現在(第92代)に至っている。その阿蘇氏の館が、矢部高校敷地にあった。「この場所には、金の鶏が埋まっており、毎年、年の晩には鳴く」と伝えられていた場所だ。

 

伝承によれば3歳の大宮司・阿蘇惟光が島津氏との戦を避けて、浜の館から逃げ出す際に文書類は男成社宝殿に、またほかの宝物は「人知らざる穴蔵に」隠したと『拾集昔話』(渡辺玄察、元禄5年〔1692〕)に伝えられた。この伝承を頼りに試掘を進めると、まず、家屋の礎石、柱穴、庭園の跡が確認され、「浜の館」の伝承が事実であったことが証明された。

 

 そして、昭和49年(1974)、発掘調査のいよいよ最終日という222日、その日はとても寒い日だった。もう土をかけて元に戻さなければならない、ブルドーザーの契約期限もあと数時間に迫っていた時で、私の師匠である井上先生は慰労会の準備をされていた。

 

 そんなとき,庭石跡に土の色が違う落ち込みがあり、桑原先生が長年の勘から違和感を覚え、そこを掘ってみると、第1の穴からは館陥落のとき隠したものと見られる黄金の延板1個、白磁の置物2個、玻璃(ガラス)杯3個、第2の穴からは三彩鳥型水注一対、緑釉水注二対、緑釉陰刻牡丹文水注一対、三彩牡丹文瓶一対、染付牡丹文唐草文瓶一対、青磁盒子1個という大宮司家の遺宝が発見された。これらは中国明時代の十六世紀ごろ福建または広東付近の地方窯で焼かれたものと見られている。現在は、熊本県立美術館に保管されている。

 

 土の中に隠さなければならないほどの大切なものであったことは明らかで、いずれも一対になっていたことから祭祀用として使用されていたものと考えられる。出土品21点は、昭和61年に国の重要文化財に指定された。

 

 私たちが浜の館の存在を伝える伝承を信じず見過ごしていたとしたら、今頃、昔矢部のどこかに浜の館があったという伝承のみを残し実在の館は永久に葬り去られるところだったであろう。往々にして私たちは地元に残る伝説や伝承を無視する傾向がある。しかし「浜の館」は、この地方の伝承の中に数百年前の史実を秘めて生きて来た。伝説や伝承の重みをあらためてかみしめてみたい。

2018年01月24日更新