城山神社岩尾城2 一説には、貞応元年(1222)阿蘇大宮司惟次によって愛藤寺城とともに築城されたとも言われているが,当時の一次資料では阿蘇氏の矢部進出は南北朝期(1336~1392)まで下る。浜の館を守るための城だ。ただし、城というと熊本城みたいな近世の城を想像するが、岩尾城は中世の城だから近世の城とはだいぶ趣が違う。普段は城では生活しないで、イザ戦いの時に人々が城に集まって来る。


 岩尾城の北側と西側は五老ケ滝川に囲まれ南側は五老ケ滝の深い渓谷で隔絶された天然の要害。五老ケ滝側には現在棚田が形成されているが、あれはその昔、空堀だったとのこと。本丸以外に二の丸、三の丸、出丸を有し、西木戸や木戸櫓、大手櫓、手形櫓などの地名が現在も残っている。標高482m,町との比高は約30m,阿蘇氏が浜の館を捨て目丸落ちを行った天正13年(1585)から14年(1586)頃破却されたと思われる。


 なお、岩尾城のことを別名「亀甲城」とも言う。岩尾城の大手門は、五老ケ滝川に架かる城山橋付近だが、当時はあの城山橋下の川は現在の図書館の北側を迂回しており、図書館までは岩尾城と陸続きだった。空中から見ると岩尾城は別名「亀甲城」の通り亀の形をしており、図書館のところが亀の頭の部分で本丸が亀の甲羅の部分となる。大川町と言う町名は現在の五老ケ滝川が大川町通り沿いを流れ図書館の北側を迂回していたからである。また、図書館周辺を古川町と呼ぶのもその名残。


 岩尾城は「亀甲城」で,それに対して愛藤寺城は「舞鶴城」と呼んでいる。それは、愛藤寺城がまるで鶴が羽を伸ばしているかのように見えるからだ。


 岩尾城の本丸跡に城山神社が建っている。通称「若宮さん」と呼ばれおり、菅原道真公と阿蘇公17代神霊(惟次・惟義・惟景・惟国・惟直・惟時・‥惟種)が祭られている。

2017年07月09日更新