明和3年2月8日(1766)にも畑前田塘下で芝居掛けなされ、同2月17日より始まりました。18日には「祇園祭礼信長記」、19日には「姬小松子日遊」、21日 「仮名手本忠臣藏」、23日「日高川入相桜」、24日「天竺徳兵衛」、25日「由良湊千間長者」、28日「ひらかな盛衰記」、29日「岸姫松轡鑑」、3月5日「極彩色娘扇」、8日「小野道風青柳硯」、9日「大和仮名在原系図」、以上11日間日替わり演目で「豊後杵築又右衛門座」よって興業がなされています。すごいですね。これだけ長期間の間興業が打てると云うことはそれだけ見に来る人が居たわけですね。令和の山都町も真っ青です。

 

 ちなみに、「畑前田塘下」とはどこかと云えば、ぼくは矢部高校前の大川町通りの南側ではないかと思います。現在の五老ヶ滝川は、畑橋から桐原方向へ流れていますが、以前は畑橋から大川町沿いに古川町方面へ流れていたそうです。ちょうど中村倉庫と隣接する田との間に段差があります。その段差沿いに流れていたそうです。だから、矢部高校前の通りを大川町と呼ぶのだそうです。現在でも大川町の通りの南側は城平でなく畑字前田です。よって大川町通りは塘の跡だと思います。矢部の村々気質に「大川台原(ちゃーばる)長丁場」と唄われています。その「台原」が塘の跡だと推測します。

2021年12月13日更新