「同(宝暦)13発未2月13日畑前川新橋渡初有,矢部忠兵衛公豊おもへらく畑川ハむかしより橋なく石飛にて往来すといへとも此所は日向往還筋にて諸人往来不絶所也然に夏ハ五月雨の頃或ハ夕立有時ハ俄に山水溢て急に私事成難し,冬ハ飛石氷りて婦女・音盲の輩是を渡るに難渋す故に橋を架け往来の諸人を安からしめんと思慮せられ其趣を願ひ上られけれハ則御免ありて新に橋を掛られける,扨渡り初にハ長寿の者橋初る事佳例なりとて是を撰るるに轟村庄屋小助今年八九歳妻八七歳夫婦共に健なる老人なりけれハ是者に渡初の事を命せられけり扨其日に成けれハ見物群集して是を見るに,小助麻上下を着し妻ハ綿帽子をかふり孫子共数人召連て此橋を渡りける,橋渡りの規式相済て役人を初め数多河原に席を設酒盃をめくらし菅の根の長き日あかす各歓声を発してことふきあいぬ。」

 

 意訳するまでもありませんが,宝暦13年2月13日畑の橋の渡り初めが行われました。惣庄屋矢部忠兵衛公豊が思うには,畑川(現在の畑地区を流れる五老が滝)は昔より橋がなく,石飛にて渡っていたが,ここは日向往還筋で多くの人々の行き来が絶えない所なのに。夏は梅雨頃或いは夕立が有るときは突然に山水で溢れ急に私事もできず,冬は飛び石が凍りて女性や目の不自由な人々,これを渡るのに困るゆえに橋を架け行き来する人が安心して川を渡れるようにと考え,その趣旨を願い出たら直ちに許可があり,新たに橋をかけた。さて,渡り初めには長寿の者が渡ることが佳い慣例なので,この選考をしたところ轟村庄屋小助今年八九歳・妻八七歳夫婦共健やかる老人なので,この者に渡り初めをの事を命じられた。当日は見物人が群れをなし集まりこれを見物したところ,小助は麻の上下を着て妻は綿帽子をかぶり子や孫らを数人つれて此の橋を渡った。渡り初めの儀式が済んで役人初め多くの人々が河原に席を設け,酒盃をめぐらしいつまでも歓声を発して祝った。

 

 現在の畑橋の上流に橋の上から眺めると所々に河床に穴があいているのが見えます。これが,この時の橋脚の跡だと思われます。それにしても,渡り初めをした小助夫妻が八九歳と八七歳とは驚きます。しかも夫小助は現役の轟村の庄屋を勤めているようです。当時,こんな元気な老人もいたのですね。
2021年12月09日更新