それでは、実際に拾穂記を読んでいきましょう。拾穂記からの引用文は読み下し文としました。

 

 宝暦9(1759)年の神社改帳によれば、矢部手永内には神社が19社あったそうです。このうち、男成社が15カ村、小一領社が14カ町村、鶴底村御釜社が8カ村、大川村姫宮社(現在の大川阿蘇神社)が6カ村、菅村白谷社4カ村で、あとは全て一社一村だそうです。

 

 拾穂記の宝暦9年(1759)9月の記事に「鶴底御釜神社祭礼を浜町地踊りの若者行いて相勤む」とあり、享和2年(1802)9月29日の記事にも「御釜社祭礼浜町若者共30人ばかり行き、獅子舞切狂言十二段興業す(中略)この4カ年踊り無くこれ寂しき祭り成しに、このたび町より若き輩獅子舞切狂言いたしけるゆえ見物群れをなす、よって商人売り物残らず売り払い悦ぶ、鶴底に両日滞留し10月1日皆帰る。」と記してあります。

 

 また、文化2(1805)年7月14日には「晩にこの地蔵(矢部勘右衛門重元が癩疾で隠居入道して塊也と改名し平癒の祈願で作った地蔵)を車に載せ、灯火を数多くともし大勢付き添い町を通り志の米銭をもらう。これも珍しきことなり、米8升、銭45匁あるとか・・・」 とあるように、逆に村から浜町へ乗り入れることもあったようです。

 

 村々が連合して統一行動を取ることは一揆を誘発することもあるし、したがって領主からみれば危険な状況とされたので極力それを避ける村支配をしたとされます。ことに、阿蘇外輪山の南麓に位置して、藩庁から五十余キロも遠隔地でしかも山間地である矢部地域は、3200戸弱、人口16000人弱であるが、これが結束した時のエネルギーは侮りがたいものでした。矢部手永内の民衆は、厳しい統制下にあっても、雨乞い踊りといって、支配側にとっても拒否の理由とはなし難い口実を設けて手永内78の全村が結束して雨乞い踊りを自演することもたびたびあったと岩本先生は述べられています。

2021年12月04日更新