(前回より続く)
 阿蘇家の軍師であった甲斐宗運は、御船房行の謀反の噂を耳にし房行を討つ決心をしました。当時は、まだ士農工商の区別はありません。ですから、この時代の戦争は米が取れてからしかできません。米の収穫期というのも戦いのポイントになります。矢部は下方よりも早く米を植えるから、こちらは早く戦いの準備が出来ますです。

 戦争をする場合、陣触れという命令を出します。これは秘密の命令で、家臣の主だったものだけに伝えるます。戦いの日の11月10日は、これは旧暦なので今よりも約一月遅れになります。
 
 岩尾城の本木戸、木戸櫓の下の段の広場を「揃(そろえ)」と言います。その揃のいわれについて、井上清一先生が古老から聞かれた話では「あそこは葬礼をしよったところ」と言われたそうです。しかし、そうではなくて戦いの前に人馬を揃える「陣揃え」のことだとおっしゃっていました。

 小一領神社の前身である柳本大明神は、当時新町の本魚屋と隣の熊日新聞販売店、川万屋あたりが元の社殿のあったところです。現在の新町から仲町の方までは、柳本大明神の境内でかなり広い境内地です。そこで、出陣祈願をしたわけですが、そのときに矢部の庄司であった井手清右衛門豊宣という人が小豆の握り飯をたくさんモロブタにいれて、酒を出して出陣式を盛大にしました。(次回へ続く)

2021年11月13日更新