いつぞやの熊日新聞に、阿蘇市的石の大しめ縄の記事が載っていましたね。記事にもありますように的石は、その名の通り建磐龍命が往生岳から矢を射る的にしたと云われる石です。

 その矢を拾ってくる役目を務めたのが家来の鬼八です。鬼八は、的石から9キロ離れた役犬原地区の霜神社に祭られています。

 

 霜神社と言えば、農作物に霜の害が出ないように火焚乙女が火を燃やし続ける神事が有名ですね。この火焚き神事には、次のような神話が伝えられています。

 

 阿蘇を開拓した建磐龍命は、毎日のように弓の稽古をしていました。家来の鬼八は99本まで命に矢を拾い届けましたが、100本目の矢は疲れて蹴り返しました。これに命は腹を立て、逃げる鬼八の首を切ると、その首は天に昇りました。鬼八は傷が痛むため、早霜を降らせて人々を困らせました。命は、鬼八の恨みをしずめるため、霜神社を建てて鬼八を祀り、火焚きの行事を始めました。

 

 この神話で、矢部が出てきます。命は、逃げ回る鬼八を追いかけ、南外輪山を越え矢部で鬼八に追いつきました。そして、鬼八の首や胴を斬ってバラバラにして埋め鬼八を退治しました。この時に鬼八は「阿蘇谷に霜を降らし、この恨みを晴らしてやる」と言い残し命絶えたと言います。

 

 矢部に残る伝説としては、矢部で命に捕らえられた鬼八は、命が持っていた弓でお尻を叩かれたから八つ屁を放った。だからその地帯が「ヤベ」と呼ばれるようになったとも言われています。

 

 井上清一先生は、この鬼八は矢部地方に稲作を伝えた渡来人ではなかったのかとの説を唱えていらっしゃいます。鬼八は手足が長く胴が短かったと言います。これは、穿の洞窟に居たと言われる土折猪折(つちおりいおり)の事ではないかと言うのです。日本書紀によれば、土折猪折は大和朝廷によって誅伐されました。この土折猪折が矢部地方に稲作文化を伝え、大和朝廷に追われ高千穂方面へ逃げて行ったと井上先生はおっしゃってました。清和地区の古野原から出土した「石剣」は朝鮮半島で作られたものだと言います。それも、実用品でなく祭祀用だそうです。そのような一族がこの矢部地方に居たとする先生の説は、興味深いものがあります。  

2021年11月02日更新