見岳山へ登り下山し、小笹・井無田間の道を下った小払集落にいつも気になる祠があります。車を停めて、近寄ると石の祠で、中には御神体らしい小石が祀られています。

 

 何を祀っているのか分からないので、帰ってから調べたところ、「年の神」様だそうです。この集落の東側には見岳山麓の湧水を集めた溜池が築造されています。この溜池の水を利用し棚田が築かれています。「年(歳)の神」は五穀を守護する神なので、豊作祈願と感謝の信仰の対象なのでしょうね。

 

 県道まで下ると円形分水公園があり、その先には円形分水や亀堰が見えてきました。円形分水公園には、「観音菩薩」と、「龍地神」の板碑と「大日如来」が祀ってあります。観音菩薩の石祠の横には「明治三十五年八月中旬」と彫ってあります。大日如来の台座には「昭和二十四年三月、立主・上田虎彦、上田虎熊、石工大岩成実」とあります。さらには「龍地神」には右に「明治十二年」左に「卯三月立之」とあります。

 

 円形分水は、昭和31年に造られています。それまでは、通潤土地改良区と笹原土地改良区との水争いもあったようです。師匠の井上清一先生から聞いた話しでは、昔は秋の奉納相撲大会で勝ち残った者が翌年の水番係を命じられることもあったそうです。野尻の飯星時春さんから聞いた話しでは、飯星さんも若い頃、ここの水番に立ったことがあるそうです。そんな、水争いから受益面積の割合に応じて配水する円形分水ができたことにより争いもまーるく治められ何よりでした。この円形分水の横の笹原川に布田保之助さんが築いたとされる笹原石堰、通称亀堰があります。

 

 笹原の県道を聖橋方向に向かうと右手(西方向)に笹原城跡が見えてきます。矢部13城の一つです。歴代城主の中に笹原丹後守が居ますが、それが美里町の馬入城に移り、その末裔があの霊台橋を架けた砥用手永惣庄屋・篠原善兵衛です。

 

 篠原善兵衛は惣庄屋になる前の手永会所の役人だった頃、通潤橋のお手本とされた雄亀滝橋(おけだけばし)架橋にあたり、当時の砥用手永惣庄屋・三隅丈八に種山石工を紹介した人物です。布田保之助さんは、この雄亀滝橋の架橋を見て、矢部にも石橋を架けたいとの志を立てたと言います。

 

 そして、布田さんが通潤橋を架けるに際し、その前にこの篠原善兵衛らが笹原川から砥用へ水をひくために畑地区まで水を引いてきたのが途中で頓挫し、それを引き継ぐ形で布田さんが白糸台地に水を引いたという不思議な縁があります。ある意味、篠原善兵衛さんは矢部の恩人です。それも、その先祖が笹原川沿線に居住していたと言う時間を超えた縁があります。

2021年10月30日更新