矢部高校の老朽化に伴い校舎を建て替えることになりました。ここ矢部高校敷地及びその周辺には、いろいろな伝承や地名が残っています。

 その一つは、この場所には金の鶏が埋まっており、毎年、年の晩には鳴くと言われていました。地名としては、城ノ平、陣ノ内、お花畑、正作田(しょうつくりだ・佃・豪族が直営して作る田)などが伝わっています。

 そのような事情から校舎建て替えにあたり、熊本県教育庁文化課は、 第一次調査 (S48)と第二次調査(S50)の二回にわたり発掘調査を行いました。

 浜の館第一次発掘調査主任でした故・桑原憲彰先生が、浜の館のお宝を約400年ぶりに掘り出した瞬間を語られた講演を、ぼくは先生の生前に聞くことが出来ました。以下は、講演の内容です。

 

 発掘調査最終日の昭和49222日の午後2時頃、出土した庭石類の取り除きを終わり、がらんとなった遺跡中央に立ち厳寒のなかで5ヶ月間にも及んだ調査を思い、ある種の感慨にも似た気分にしたっていた時のことです。

 

 冬の弱々しい日溜まりを通して、見馴れた礫群の散乱する一角を見つめているうち、いつもと違った異様な引かれるような感覚に襲われたのです。「何かある」と感じると同時に、急に「今日どうしてもこの場所を調査しておかなければ」という思いがふと頭を抜けていきました。

 

 後にして思えば、これが過去20年間幾多の発掘調査によって培われた一種の勘といったものだったのかも知れません。

 

 庭石の取り上げを終え運搬車に積み込もうとしていたブルトーザーを再び現場に運び、憑かれた者のように問題の箇所を約30センチの深さに急いで排土すると、案の定その跡に黒い二つの落ち込みが現れました。

 

 当日は3時から調査関係者全員で送別会を近くの食堂で行う予定であったため気が急いだのですが、この二つの落ち込みの略測と写真撮影だけはすましておこうと思い、落ち込み内の排土を始めた時のことです。

 

 最初の出土遺物である三彩牡丹文瓶の胴部の緑ゆがキラッとして目を射りました。灰色の瓦器片と灯明皿の地味な色ばかり見馴れていた我々の目に、その緑色は言うにいわれぬ新鮮さをもって迫ったのです。

 

 はやる心を抑え、まず作業員の手を制し慎重に箆掘りするように指示しました。

 

 それから二時間、二つの落ち込みから全21点にものぼる阿蘇家の宝物が続々と姿を現したのです。

 

 ぼくの師匠井上清一先生も当時の発掘の現場に立ち会われました。桑原先生が述べられるとおり、発掘作業最終日の出来事でした。それも師匠らは、慰労会の準備をしていたといいます。桑原先生は、作業を終えた現場をただ一人見つめ、まるで神の見えざる手にみちびかれるかのように宝物を掘り当てました。

 

 ぼくは、桑原先生と師匠のお二人から、そのお話を直接聴き、背筋が震えるほど感動したことを覚えています。

図1

2021年09月19日更新