(前回から続く)


 阿蘇氏が矢部に移り住んだ理由の一つとして、阿蘇氏が居た南郷と矢部とは地縁が深いと述べました。隣接だと云うことはもちろんですが、阿蘇外輪山の峠数を比べてみれば一目瞭然です。

 

 北の小国の方には、大観峰を越えて行く峠しかありません。東の方に行くのは、波野の方に行く滝室坂というあの坂だけです。

 

 ところが南外輪山の方を見てみますと、俵山の下に扇坂、護王峠、地蔵峠、赤迫、駒返峠、多津山峠、天神峠、清水(きよみず)峠、長谷(はせ)峠、中坂(ちゅうざか)峠、高森峠そして崩土(くえつち)峠合計十カ所以上峠があります。いかに阿蘇氏の勢力が外輪山を越して南部の矢部に土地を求めて来たかわかると思います。

 

 山都町には、阿蘇家の家臣の姓が多く残っていると云うことも前回も述べました。そのことについてもう少し詳しく述べます。

 

 南郷の高森出身の高森伊予守の一族が入佐に住んでいます。子息が出ると一番上の頭字だけを取って、その下に他の字を付けて分家します。高森氏の場合は、高の字が付きますから、高岡、高宮、高宗。そういった人達が分家してだんだん増えて行きます。

 

 それから同じ高森の一族で高森町の北約四キロ当たりに矢津田という地区があります。そこの地区の出身者がやはり高森氏と一緒に入佐に来て、矢津田、八田、津田、八本というような姓になって入佐に居住しました。

 

 高森町の色見に井上という地区があります。そこの出身者は、成君に来て「井上」を名乗っています。高森町の冬野の地区の出身者は、菅に来て「冬野」を名乗っています。

 

 また、南阿蘇村の二子石地区出身の人が、中島に住み中島を名乗りました。同じく南阿蘇村の両併村は市下村と竹崎村とが合併した村で、この市下地区の出身者(市下大和守)が下市に来て市下を名乗っています。

 

 同じく南阿蘇村の下田城主だった下田河内守の一族が荒谷に居住し、その一部が浜町に来て下田(萬屋)を名乗りました。

 

  また、阿蘇神社の北方に国造(こくぞう)神社があります。あの付近には阿蘇神社直属の家来の集落があります。その一つに山下村というのがございます。そこから来ているのが上川井野の山下一族です。それから大宮司家の神職系統で来ているのが井手一族です。これは下馬尾と下川井野そして下名連石の井手です。それから古閑氏一族、これが中島や下名連石に住む人たちです。


 以上はすべて、井上清一先生から教えていただいたことです。どうです。自分も含め廻りは阿蘇氏一族がたくさん居るでしょう。


(次回へ続く)

2021年09月15日更新