(前回より続く)

 さて,心ある町民の方から「山都町が阿蘇氏の拠点だったことを町民が知らなすぎるのではないか」との趣旨のご意見をいただきました。ごもっともなご意見です。これだけ,阿蘇氏の足跡が多く遺っているにもかかわらずですね。

 

 令和2年7月21日に4年ぶりに通潤橋の放水が再開しました。町民だけでなく県内外の多くの人々が感動しました。山都町郷土史伝承会の会員が,当日の午後に通潤橋放水再開の記事をTwitterに投稿したところ翌朝は15万回以上再生されたそうです。

 

 通潤橋は,なぜこんなに多くの人に魅力を与え,阿蘇氏のことについてはその魅力が伝わらないのでしょうか?通潤橋の場合は,一目瞭然です。布田保之助さんの「民福増進を弥増さん」とする思いが見事花開き,そして通潤橋の原理や協力者達の物語,何よりもそれらのことが社会科で教えられていることが大きいかと思います。

 

 かたや阿蘇氏については,まず阿蘇氏が矢部にやって来た理由として,矢部町史は次の3つの理由を挙げています。

第1は,北条氏の圧力です。北条氏が小国に満願寺を建て土着したことが理由としています。

第2は,矢部との地縁です。大宮司の私領南郷十ケ村は矢部と隣接し,早くから矢部と阿蘇氏との関係が深かったと云うことです。

第3は,矢部の経済力です。阿蘇氏が支配する地全体の約6分の1に相当する60貫470文の棟別銭を矢部は納めていたと云います。ちなみに,甲佐が22貫662文,砥用が17貫810文と云いますので,矢部が経済的に他の地に比べてずば抜けて豊であったことが分かります。

 

 上記の第1の理由をもって,多くの方が阿蘇氏は北条氏に追われ矢部に逃げてきたのだとおっしゃいますが,それだけならば,北条氏が滅んだ後に阿蘇氏は,また阿蘇に戻るはずです。それが戻らずに「浜の館」を本拠として住みついたのですから,北条氏の圧力があったことは否定しませんが,むしろ阿蘇氏は矢部に惚れてやって来たと言うべきではないかと思います。

 

 阿蘇氏が矢部に惚れたのは,経済力だけではありません。阿蘇氏は,矢部に来る前は南郷に居ました。南郷は,見ての通りロケーションはいいのですが丸見えです。隠れる場所もありません。しかも,火山灰土壌で稲作には適しません。

 

 それに比べ矢部八谷と称されるように、矢部には八を越える大きな谷が存在し守るにも攻めるにも都合の良い地形です。そして,愛藤寺城の真下には大水運緑川もあります。丁度矢部は,駒返峠からの九州脊梁山地に繋がる南北ルートと日向から熊本平野に至る東西ルートの交差点です。

 

 過日私は,阿蘇氏縁の名前を紹介しました。南郷の高森の高森氏,高森の北の野尻に近いところの矢津田氏や冬野氏,南郷の下田氏,野田氏などですね。野田氏は男成と梅木に、冬野氏は菅の白谷に,下田氏は荒谷に,高森,矢津田氏は入佐に来ています。更に入佐では,高森から高岡,高宮,高宗に,矢津田は八田,八本,津田に分かれました。

 

 これとは別に本町の学芸員さんが調べた「現代における阿蘇家家臣の名字割合」と云う資料があります。それによれば,矢部地区では3322世帯のうち615世帯(19%),清和地区では927世帯のうち64世帯(7%),蘇陽地区では1309世帯のうち222世帯(17%),町全体としたら当時5558世帯のうち901世帯で(16%)が阿蘇家家臣の名字割合だそうです。

 

 さらに学芸員さんは家臣の名字割合ベスト5を下記の通り調べています。

  矢部地区  清和地区  蘇陽地区

1 中  村  中  村  甲  斐

2 甲  斐  高  橋  田  上

3 下  田  堀     今  村

4 村  上  下  田  橋  本

5 井  手  村  上  林

 

 これらは,生きた文化財でと言えるのではないでしょうか。

(次回へ続く)

2021年09月14日更新