慶(華)蔵寺墓地は、隣保館の前を通りバイパスへ向かうと信号の少し手前の右の台地にあります。阿蘇氏の墓地だと伝えられているところです。登り口左には、板碑と地蔵が並んで建っています。板碑には逆修と刻んであります。「板碑」とは、主に供養塔として使われる石碑の一種です。ここ片平地区には、特に自然石を用いた板碑がたくさん残っています。また「逆修」とは、生前に逆(あらかじ)め自己の死後の冥福を祈って仏事を営むことを云います。ここの板碑は、天文15年(1546)に建立されたものです。お地蔵さんの方は寛保2年(1742)に建立されています。

 

  高台へとどんどん登っていきますと、途中に福王寺住職の墓地があります。墓碑(無縫塔)には「医王心院阿闍梨大僧都道俊和尚位」、昭和53年3月5日、行年66歳、法友長谷寺住職西川賢澄、長専寺住職角本澄昭、三ノ岳住職作村大範」の交友が之を建てる。と記されています。その墓地の片隅に石塔が建っています。その石塔の正面には、「正三位阿蘇前大宮司宇治朝臣惟忠卿之墓、文明十七年(1485)乙巳五月朔日」とあり、裏面には「文化乙亥春修造」と刻まれています。阿蘇惟忠の父は惟郷、子は惟憲です。そして孫は、惟長及び惟豊です。墓標は、この位置にありますが、本来のお墓はその上の段にある数基の基壇のどれかではないかと云われています。

2021年10月11日更新