(前回より続く)

 さらに、この小市郎さんを調べるに連れ、意外なことを知ることができました。大分県の国東半島を中心に「コイチロウ」と呼ぶ地域神があるのだそうです。神名には、小一郎、小市郎、今日霊、古一老、古一霊、魂一郎、混一霊、混血霊、木一郎、九市郎など、さまざまな当て字が使われているそうです。

 

 この神の型には四種あり、第一は祟り神、第二は家の守護神、第三は先祖神または氏神、第四は忘却過程にある小一郎と説明してありますが、最後の忘却過程にあるというのがどういう意味なのかはわかりません。

 

 民俗学者である櫻井徳太郎氏が昭和35年刊行の「くにさき」において、小一郎神の分布地域を「熊本県下から北九州一帯に、その存在が拡がろうとしている」として次のように注記されているそうです。

 

 「肥後国誌」に矢部手永、浜町小市領というのは「鎧一領」のことであると述べている。しかし、小市領というのはおそらくいわゆる小一郎を指しているものと思われる。ほかに飽田郡池田手永井芹村加藤屋敷、甲佐町下早川村藤島大明神跡などが、小一郎森といわれていたことなどから察すると、小一郎信仰は、遠く肥後地方にも及んでいたらしい。

 

 これに対して、小玉洋美氏はその著「コイチロウ神名考」の中で、まず小一領神社はもとは柳本大明神(著作の中ではなぜか「柳水大明神」と記してある)で、大宮司阿蘇惟豊の長子千寿丸の初陣にちなんで戦勝祈願を行い小具足一領を奉納したので神号を小一領と称したのだから大分県の小一郎社との関係は全くないと否定しています。

 また同氏は、櫻井氏が井芹村加藤屋敷と記しているのは加賀屋敷跡のことであり、下早川村藤島大明神跡と記しているのは下早川村厳島神社の誤りで、何れも大分県の地から波及したものではないと否定しています。

 

 小一領神社については御説のとおりですが、その他は井芹党と関わりあるところなので興味深いですね。ウィキペディアからそれに関する部分を引用すると、阿蘇家には「井芹党」と号する70名余りの与力衆がおり、この頭の加賀という者が島津氏に与して阿蘇氏を滅ぼそうと企んでいると聞いて、甲斐宗運は尽くこれを討った。この党派には宗運の息子達、次男親正(蔵人)三男宣成(三郎四郎)四男直武(四郎兵衛)も加わっており、次男を討ち、逃げた三男を江俵山に追って討ち、四男は日向に逃亡したが、嫡男の宗立も龍造寺氏に与する計画を持っていたのでこれを追討して捕虜とした。合志伊勢守が助命嘆願をしたので、宗立については起請文を書かせて助命を許したとあります。

 

 我が子と云えども、主家を裏切ることは許さない甲斐宗運の生き様がみてとれます。おそらく、多くの恨みもかったことでしょう。恨みという面からすれば、コイチロウ神とも無関係ではないようにも見えます。

 

 さて、甲佐町田口の小市郎神社の御祭神は小市郎大納言藤原経家だそうですが、この方は田口とどういう関係にあったんでしょうね。

2021年11月09日更新