また、拾穂記寛政11(1799)年6月24日付に「一つの郷に雨踊りが三箇所寄り、上は増尾、中は畑の上に寄り、下は幕の平、(中略)仲町ドラを買い今日仕出し、備前屋ドラ若き者数人笛太鼓いろいろ花仕出し、町に出てる雨踊りの内白小野行列仕出す。槍弓など作り鉄砲士など拵え出る、太鼓は車台を作り敲いたり,又目丸大勢出るところなり、今日在より女子供見物に出賑やかなり。」とあります。

 

 6月から7月にかけては毎年このような雨乞い祭りがこの矢部手永で繰り広げられています。これが、支配者である藩からの強制であればこれほど賑やかには行われません。岩本先生は、浜町は矢部手永の中心で、対して目丸は、浜町の東南端十数キロ山間僻地にあって元々は木地屋集落で畑作が主で水田に乏しい貧村です。その目丸が「大勢出るところなり」と記しているのは,毎年大挙して雨踊りの為に山間僻地から町まで出張ってきたことを表現している。それは雨乞いをするというより、「仁助咄」の困窮農民の舞台とも考えられている矢部地域の民衆が、日常の圧迫感のウップン晴らしの手段に雨乞い踊りを利用して共感を確かめあったとみても差し支えなかろうと述べられています。

2021年12月06日更新