DSCF1503通潤橋 003 


国指定重要文化財でわが国最大の石造アーチ水路橋。矢部の白糸台地は、緑川の本流、千滝川、五老ヶ滝川に挟まれた台地で、水利の便がなく、以前は畑作がほとんどで地域住民の苦難は、厳しいものだった。これをみかねた時の惣庄屋「布田保之助」が、農業用水はもとより飲料水にも事欠く白糸台地の人々の暮らしを良くするために、現代の土木技術にも匹敵する究極の技術を駆使しもって築造し嘉永5年(1852)12月着工、嘉永7年(1854)7月29日に竣工した。


 水は、6キロメートル以上上流の笹原川から引き、通潤橋を跨いで、白糸愛藤寺まで、5.7キロメートルに達し、支線を含め水路計42キロメートルに及んでいる。


 布田翁によって造られたり改修されたりした道路は164ケ所で156本、計約220km、目鑑橋は大小13基。工事箇所は、おおよそ矢部手永の全域に亘っている。そして、その集大成が通潤橋。それは、技術の集大成でもあり布田翁の政治の集大成でもある。


 白糸台地の水不足がもたらす弊害は、早い時期から布田翁の心を悩まし、その問題を解決するには大事業が必要で、大事業を行うには白糸地区以外の人々の理解や協力が必要だ。そのために、まずは他の地区から公共工事を行い、最後に通潤橋に及んだのではないかと推察する。


 そんな配慮がなされた工事でもあっても、中にはこんな狂歌を詠んで布田翁を揶揄する者もいた。


  石橋をくずしてかけた目鑑橋

  水はあがらず布田は干しあがる


 布田翁は、心を一にしてかからねばならない工事なのにこのような狂歌が詠まれるのは聞き捨てならぬと、この狂歌を詠んだ本人を呼び出し問いつめたところ、作者は「いゃ、それは誤解である拙者はこう詠んだのである」と言った。


  石原をくずしてかけた目鑑橋

  水もあがれば布田は栄ゆる


 また、こんな話しもある。工夫に工夫を凝らして、布田翁は藩に対して計画書を提出した。ところが、藩はなかなか着工許可を与えてくれない。聞けば藩は、石橋の上にさらに重い石樋を乗せることに不安を持っているようだ。板樋では水圧に耐えきれないことは実験済み。なのに、布田翁は、藩の心配を除くためか石樋を板樋に計画変更し許可を求めた。その後1ヶ月足らずの内に許可が下り工事は着工された。そして翌年12月にはあらたに板樋を石樋に変更を申し出その月の内に変更が許可された。


 我々素人からみればこれはいったい何だと言いたいところだが、これが当時の役所の実情のようだ。一旦は、藩の許可基準に添うよう板樋に計画を変更し許可を得て事業着工を先行させる。役所と言うところは、一旦着工した事業を途中で止めることができないのは今も昔も同じ。布田翁は、それを逆手にとり板樋を石樋に変えさせた。布田翁の政治手腕には驚かされる。


 こんなエピソードも伝えられている。通潤橋の石樋をつなぐのに漆喰が用いられた。石樋の継ぎ目の溝に一握りの漆喰を丁寧に入れ、棒で70回突き固める。1本の溝を埋めるのにこの作業を約30回繰り返す。突き方は強すぎても弱すぎてもいけない。均等に突き固めることが大事。一つの石樋には溝が4本あり、通潤橋には三列の石樋が据え付けられており、その石樋数は約600個。ゆえに、石樋すべての溝を埋めるためには500万回をこえる漆喰固めが必要。


 この気の遠くなるような作業に、手永内の知的障害者が採用されたと伝えられている。それまで障害者は、地域に於いてまるで役立たずかのように見られていたのが、障害者故に持つ秀でた才能が活かされ通潤橋架橋という公共事業に地域の人々と共に従事できたことは本人にとっても家族にとってもこれに勝る喜びは無かったのではないかと思う。


 最後にこのエピソードを紹介する。昭和6年、当時矢部農業学校(現在の矢部高校)教諭柴本禮三先生は、生前の布田翁を知る山下吉平さんを訪ねることができた。山下さんは、当時すでに80才の高齢だったので、ちょうど通潤橋架橋工事が始まった頃の生まれだと思われる。よって、山下さんが布田翁を見たというのは、布田翁が隠居した後のことだと思われる。以下、柴本先生が山下さんを訪ねられたときの記録が残っているので紹介する。


 縁にポツネンと座って居た老人は、不意の訪問に一寸驚いた様子だ。まづ、来意を告げ談、布田翁に及ぶと山下老は急に居住まいを正し、目は異様に輝きを帯びてきた。


「おじいちゃんは布田翁をご存じですか?」

「ハイー、ハイー、知っておりますとも!この村は布田さんのおかげで米がとれる様になりました。」

(中略)

「おじいちゃんは布田翁を見たことがありますか?」

「はいー、ありますとも、私の小さい時でした。布田さんはよく、四,五人のお供を連れて、ここの道を通りました。その時には、大旦那のお通りだと言って、大人も子供も、家に居るものも外に居るものもみんな飛び出して、土下座をして、お辞儀をしました。」


 この時、老の目には涙さえ光っていた。しばらくは無言。当時を追想するものの如し。私もこんな感激にみちた場面に逢いたる事はない。老の心の内には常に布田翁が生きて居るに相違ない。又私の訪問によって、いよいよその印象を新しくしたに相違ない。「大旦那のお通りだ」と言って、飛んで出てお挨拶申し上げた。何と言う美しい関係であろう。封建時代の大名の圧倒的土下座と比較して見よ。そのあまりのへだたりの大きい事よ。


なお、通潤橋の橋の上に立つ「通潤橋」の標石は、宮部鼎藏による揮毫である。


2017年07月06日更新