図1



 南都(今の奈良県)の僧兵の反乱を鎮圧するために向かった平清盛の5男重衡が、東大寺の大仏を含めた南都の寺を炎上させた。この事件が生じたのが治承4年(1180年)12月28日のこと。

 ところが翌年には、朝廷から俊乗房重源に「東大寺造仏使」という勅命が授けられ復興事業が着手された。そして、建久6年(1195)に復興が完成し「大仏殿落慶供養」が営まれた。この復興事業のために周防国(現在の山口県)が東大寺造営料所として充てられ、多くの木材がこの地より奈良へ切り出された。大変な重労働だったらしく、体が悪くなった人たちの養生のために温泉や石風呂が利用された。


 ここで云う石風呂とは、現在で云うサウナ風呂のようなもの。山都町にも数カ所残っている。その一つが、元営林署跡(前役場仮庁舎浜町事務所)の北側・下田弘氏宅の玄関前の道上にある。これは、下馬尾の正福寺(現在日蓮宗)が天台宗だった頃のお寺の附属施設との説がある。昔のお寺は、総合大学みたいなところで医学的なことも行っていたようだ。


 岸壁を掘った洞穴で、入口の幅は1.9m、入口の高さは1.7m、内部の高さは1.8m、奥行きは1.7mで、内部の幅は2.4mある。一番奥の壁が30㎝×20㎝くらいの長方形の形でえぐられている。これは、薬師如来を祀った跡だと伝えられている。


 石風呂には石が敷かれ、それに柴木を入れて火を点ける。そうすると、石が焼け周囲の壁も焼ける。それに石菖(せきしょう)、や蓬(やもぎ)を乗せ、楠(くす)の葉等も入れる。その上に濡れた筵を被せると中は香気に満ちた蒸気が立ち込める。熊笹で天井を掻き混ぜ、入口には筵(むしろ)を下げる。山口県ではこれを「平安の石風呂」として観光に利用している。


2018年03月19日更新