(4) 伝説的な名称その2(土折猪折伝説)

 もうひとつは、土折猪折(つちおりいおり)伝説です。清和地区緑川に穿(うげ)の洞窟というものがあります。その洞窟に土折猪折(つちおりいおり)が住んでいたという伝説です。

 日本書紀の景行天皇の12年の件りに、当時九州以北で朝廷の命令に背いて従わなかった豪族達が次のように四つ上げられています。日本書紀のその件を現代後訳して読んでみます。

 

 その一つを鼻垂(はなたり)といいます。みだりに主(きみ)の名をかたって山谷に人をよび集め、字佐の川上に屯(たむろ)しています。その二を耳垂(みみたり)といいます。人を残(そこな)い破り、貪(むさぼ)り食い、人民を掠(かす)めています。これは御木(みけ)の川上にいます。その三は麻剥(あさはぎ)といいます。ひそかに仲閒を集めて、高羽の川上におります。その四を土折猪折(つちおりいおり・土の上にじかに座る人たち)といいます。緑野の川上に隠れており、山川の険しいのをたよりとして、人民を掠めとっています。この四人はいるところが皆、要害の地であります。それぞれその仲閒を従えてひと所の長です。皆皇命に従わないといっています。

 

 井上先生は、この中の土折猪折(つちおりいおり)が住んでいたところが緑川の穿(うげ)の洞窟だとおっしゃいます。その根拠のひとつとして川尻の大滋禅寺の開基寒巌(かんがん)禅師が大渡橋(おおわたりばし)を架けたときの趣意書「大渡橋幹縁疏(おおわたりばしかんえんそ)」を挙げていらっしゃいます。これは、1276年に書かれていますが、そのなかに

 

「遠く甲佐の霊岳(れいがく)の西南の回り、而して碧潭藍(へきたんあい)の如し、これを緑川という。その水源に窟(いわや)あり。穿の窟(うげのいわや)という。諸岳群山、東西に峭聳(しようしよう)し、あたかも天雲の靉靆(あいたい)するが如し。その道、懸絶(けんぜつ)、吊橋を渡って窟(いわや)に至る。窟(いわや)の中広く、数十人も容ねべし。その形勢、魚鱗の連なるが如く、乳房の垂れたるが如し。所謂(いわゆる)土折猪折(つちおりいおり)が住みし所也。」とあります。

 

 一つ目の「鼻垂(はなたり)」は豊後の国兎狭川(うさがわ)の上流に住み、ここには「矢部」という地名が付いています。二つ目の「耳垂(みみたり)」は筑後の国御木川(みきがわ)上流で、ここには矢部川があり矢部村があり矢部峠もあります。三つ目の「麻剥(あさはぎ)」は高羽川(たかはがわ)上流で,最近福岡県田川市が名乗り出ているようです。。そして、四つ目が「土折(つちおり)・猪折(いおり)」で肥後の国緑野(みどりの)川上に住みその沿線には矢部があります。

 

 四つの豪族のうち三つまでがその周辺に「矢部」の地名があるというのも謎が深まります。大和朝廷の命に従わなかったというのですから、数十人程度の立て籠もりだとは思えません。井上先生はこの土折猪折(つちおりいおり)が鬼八伝説の鬼八であって渡来人ではないかと推測されていらっしゃいます。

 

 以上のとおり、ヤベと云う地名には、谷間の村の集まりと云う地理的名称と天然甘味料である甘葛汁(あまづらじる)を朝廷に献納していた宅部(やかべ)の民と言う歴史的名称そして鬼八伝説や土折猪折伝説が伝える伝説的名称と3通りの由来が伝わっています。

2021年09月05日更新