山都町役場のうえに金刀比羅さんが祭られています。金刀比羅さんと云えば、海上交通の守り神です。何で、こんな山地に海上交通の守り神である金刀比羅さんが祭られているのでしょう。それには次のような訳があります。

 

 今から遡ること約270年前、第6代藩主の地位についた細川重賢は、後の世で云う「宝暦の改革」という藩政大改革を行いました。そのなかで特に、矢部地方に大きな影響を与えたのが、「地引合せ」と呼ばれた検地です。これにより、太閤検地以来少しずつ増加した隠し田等がもれなく摘発され年貢の対象とされました。従来この隠し田からの収穫が百姓の余録となっていたものが根こそぎ摘発され百姓の生活は疲労しました。それと連動して在町である浜町の購買力もたちまち低下しました。何だか、今と似ていると思いませんか?

 

 そこで、浜町の商人たちはときの惣庄屋間部忠兵衛公豊を中心に新しい産業の開発を行いました。それが、養蚕であり製糸業でした。途中を端折りますが、結果的にはこれが成功し、下市に設けられた物産会所には常時商家の娘たちが二、三十人ほど家内手工業の製糸を行っていたと伝えられています。

 

 ここで生産された絹織物は、藩主から「丹後縞」と命名され、天明2年(1782)には、備前屋(通潤酒造の前身)の野尻清九郎が五百石の船を買い求め、これに「小一丸」と名付けて矢部のこれら物産品を川尻の支店から船で京阪神方面に輸出しました。

 

 このように、矢部の地に住みながら貿易を行った関係で、海上交通の守り神である金刀比羅さんが祭られることとなりました。しかも、この金刀比羅さんが祭られている位置は、備前屋から見て北東の位置・即ち丑寅鬼門の方向です。昔から、鬼門から鬼が出入りすると云われています。この備前屋の鬼門の方向を守護しているのが金刀比羅さんなのです。

 

 先ほど、船の名前を「小一丸」と付けたと言いましたが、この「小一丸」と云う船名は、「小一領神社」の社名から名付けられました。そこで、野尻清九郎はそのお礼に狛犬2体を大坂からはるばる取り寄せて小一領神社に奉納しました。現在小一領神社の社前にある狛犬はその時の狛犬です。「寛政元年(1789)酉五月吉日奉献 願主野尻清九郎」と彫ってあります。

 

 現在の我々は、山に囲まれた地形の中で内需拡大のみを求めています。しかし先人達は、その望みが絶たれたとき、その歴史の中で大きな「観の転換」を行いました。山の中に居ながら貿易を行うと言った偉業を成し遂げ、今もその当時の証が郷土に残されています

 

2021年12月22日更新