「同年(明和3年)丙戌春浜町惣右衛門女佐保孫市女喜余矢部忠兵衛公豊彼両人を嶋己兮宅に遣わし絹類機巧之法を習しむ嶋氏宅に数日滞留し其法を取得而帰る」

 

 これは、郷党歴代拾穂記に記された宝暦の改革時に於ける矢部地方で行われた養蚕製糸業に係わる事項です。

 

 町史では、次の様に記載されています。

 

 養蚕製糸についても藩は大いにこれを奨励してその利益を吸収することにつとめた。藩士志賀半右衛門に命じて京都に上らせ、養蚕機織のことをつぶさに研究させ、藩内の普及指導に当たらせた。半右衛門は後に名を嶋己兮と改めたが、各地をまわって指導し、宝暦13年(1763)春には浜町に来て、当地の人々に養蚕、採糸の方法を教えた。その後惣庄屋間部公豊は特に浜町から娘二人(新町惣右衛門娘さつ、古町孫市娘きま)を己兮宅に送って機織の一切を稽古させた。これより矢部地方では養蚕製糸は非常に盛んになり、養蚕楮桑仕立役太田忠助は下市の物産会所において女工2、30人ほどを常時使って家内手工業の製糸を行うほどになっていた。当時の状況について奈良本辰也氏は「明和年間(1764~72)には益城郡矢部地方の製糸業は、世の注目を浴びるほどになっていた」(「日本の歴史」町民の実力・奈良本辰也著)といっている。

 

 ちなみに、ここで出てくる新町の惣右衛門は井上清一先生のご先祖です。その娘・郷党歴代拾穂記では「佐保」、町史では「さつ」と書かれています。拾穂記の方が原典でしょうから「さほ(佐保)」が正しいのではないかと思います。一方の「きま」も「きま」ではなく「きよ(喜余)」が正しいと思われます。何れにしても、さほさんは井上清一先生のご先祖です。

 

 問題は、さほさんの父である天満屋惣右衛門の二男に惣七という方がいらっしゃいます。さほさんとは兄弟姉妹ですが、この方は惣庄屋間部忠兵衛公豊の母方の養子となり太田忠助と名乗りました。この太田忠助という方が「養蚕、桑、楮仕立役」と云う役を命じられ、さらには御郡代直触と云う侍の資格を与えられ、矢部手永だけではなく藩内各地で養蚕普及のための講習会を開いて教え歩かれました。

2021年12月14日更新