「明和元年(1764)甲申十月より町疱瘡流行 疱瘡子百三十人 死者廿八人と云」

 

 疱瘡(ほうそう)に罹った子が130人,死者が28人に及んだとあります。疱瘡は、江戸時代の御役三病の一つに挙げられます。一つは、麻疹(はしか)、二つ目が水疱瘡(水痘)、そして三つめが疱瘡すなわち天然痘です。江戸時代の日本人の平均寿命は40歳前後だったと言われますが、これは乳児死亡率が非常に高かったためであり、その大きな要因が感染症でした。

 

「同(明和2年)四月五日より畑村の上イギナ原にて興業始 豊後国杵築又右衛門座三日芸者入込四日雨天五日より興行始 芝居昔は四季何ツニテモ支不近年春三月迄にて四月に入は興行ならす且又夜芝居もならぬ由此内御達あり〇五日始義仲勲功記〇六日相馬太郎〇七日天竺徳兵衛〇八日恋女房染分手綱〇九日崇善寺馬場〇十日奥州安達原〇同晩芦屋道慢大内鑑 晩は興行ならざる所漸四月十日限十一日よりは興行ならざるゆえ役人に知らせず今晩密かにいたしける春の内御穏便なとあれば四月に入りても日数御免ある事なり」

 

 イギナ原とは,上畑の放牛地蔵があるところで日向往還と阿蘇路とが分かれています。その阿蘇路の方へ少し登ったところの高台に上畑の大杉すなわち桑鶴神社があります。桑鶴神社には矢部じゅうの神様が集まり会議を行い,全員が合議する(異議がない)まで協議するのでその場所をイギナ原と呼んでいます。そこで,江戸時代に興行が行われていました。十日間も連続して日代わり興行を行い,しかも最後は禁じられているはずの夜興行まで役人に内緒で興行したと言いますので,今の山都町より賑やかではないかと思います。

2021年12月11日更新