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目丸の久吉
 目丸の話しが出たついでに,目丸にまつわるお話しを一席紹介します。

 天正13年(1585)島津軍が肥後に攻め入り,大宮司親子は目丸に隠れ住みました。豊臣秀吉は,島津の北上を止めるため九州征伐を行い島津を撤退させました。

 目丸では,そのときの喜びの象徴として,「芝居が何でも、秀吉でないと承知せん」という言葉あります。例えば,忠臣蔵の場面に突如鎧を来た侍が出て来て、「羽柴筑前守久吉(秀吉のこと)、用は無けれども罷り通る」と言って舞台をすーっと通って行くと部落の人達はわーっと拍手喝采をして、その後何も無かったかのように通常の芝居に戻ります。

 このように目丸の人達は「何にでも出ることを目丸の久吉」と言っていました。それが転じて,いろんな役職に就く人のことも「目丸の久吉」と言っていました。

 それほど,島津を撤退させた秀吉に感謝した目丸の人ですが,後に大宮司阿蘇惟光は,幼くして秀吉によって自害させられました。
田上 彰 2016年10月06日 10時36分21秒
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