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入佐800石
入佐は古くは「いるさ」と呼ばれていました。南北朝時代の正平9年(1354)8月13日の阿蘇文書「肥後)矢部郷村注文に「いるさの分・貫高27貫500文」とあります。

寛永11年(1634)の「肥後国郷帳」には入佐村、455石余とあり、文政8年(1825)の「益城上郡手鑑」には村高800石余、田32町5反余、畑15町5反余、戸数94戸、人口334人、牛155頭、馬132頭、庄屋藤川嘉平次とあります。

入佐800石のいわれがここに出てきます。455石が800石になので、約2倍増えたことになり、所得倍増です。このときの請免は295石余でした。

請免というのは、その年の豊凶にかかわらず、年々定まった免で年貢を課す制度です。その他に上米として22石余、一歩半米として14石余合計331石余で4割以上が納めさせられました。

この入佐が、800石を有するに至った大きな原因が天和2年(1682)に第5代惣庄屋に就任した矢部勘右衛門重元による入佐今古閑の河川改修と開田だとされています。

 ここで、ちょっと話は脱線します。矢部には、多くの谷があり、谷間ごとに人々の暮らしがありました。結婚も往々にして同じ谷間内で結ばれることが多く、長い歴史の中で各谷間ごとの姿形がつくられてきました。

御所には御所顔、下矢部には下矢部顔などと、顔を見ればどこの谷の人かが分かる、と云ったようなことが昔は有ったようです。

また、一つ谷が違えば文化も違うと言うように、互いに谷間どうしのいがみ合いも多かったようです。遺伝学から云っても、種は、遠い方が良いと云われます。

内大臣の中腹に、小松神社があります。平清盛の嫡男、小松内大臣重盛を祀った神社です。毎年、旧暦の4月4日の祭礼の日に、若い男女が、ここにお参りし出会います。それが「矢部男に砥用女」、あるいは「砥用男に矢部女」と云われる「重盛さん参り」です。今で云うところの合コンです。

このイベントを作ったのが、江戸時代の第5代矢部手永惣庄屋矢部勘右衛門重元です。この人の本名は古閑と云い、もともと熊本の人です。この人は、早くから杣頭として、矢部に来て働いていましたが、その才能が認められ、惣庄屋に任ぜられました。

小松神社は、もとの矢部営林署内大臣事業所から、約30分ほど山道を登ったところにあります。こんな山奥まで、登ってくるのですから、健康な男女でなければ登れません。若い二人は、神様のご縁によって、結ばれるのだから、ここで結ばれた2人の関係を、親と云えども簡単には拒絶できません。小松神社の近くには、「一夜畑」と称される地名も残っています。おそらく、若い男女は、ここで一夜を共にしたのでしょう。

こうして、結ばれた2人は、翌年お礼参りと称して、再び小松神社に登ります。その際は、沿線上に杉の苗を植林する習わしとなっています。こうして、植林された杉苗が300年たった今も、小松神社の境内地に、大きくそびえ立ち、2000年に熊本県からは唯一、この小松神社の大杉が、「森の巨人たち百選」に林野庁から指定されました。

通潤橋を架けた布田保之助さんは、矢部手永内に、たくさんの道路を造り、橋を架けました。これは、人を通し、物を運ぶためです。しかし、それだけではありません。人と人との交流を図ることによって、この谷間間の争いを無くしたかったのではないかと思います。つまり、人の心にも橋を架け、道を通したのが、布田さんの偉大な事業だと思います。

入佐今古閑の河川改修と開田をおこなった矢部勘右衛門重元さんは、在任中に浜町轟川の改修もしました。

また水道町に元禄井手を通して下市・旧会所方面にも新田を開いています。昔の轟川は桐原の前から古川町を経由して図書館の下を迂回していたのを、赤禿げの赤橋の下を掘り割りバイパスを造りました。よって、昔川が流れていた箇所を今でも古川町と呼んでいます。

水道町には、役場東側の所から中央公民館前で高い塘(とも)が築かれその上を井手が通っていました。よって、あの通りを水道町といいます。昭和8年に塘は取り除かれ、現在水路は地下を通っています。

そのように矢部勘右衛門重元さんは、入佐今古閑の開田を行い、轟川の改修を行い水道町に井手を通し、下市旧会所方面まで開田をしてくれ、さらには重盛さん参りを仕立てて、合コンまで企画し、内大臣に植林まで施した偉大なる惣庄屋です。
この方は81歳で亡くなり、お墓は下馬尾の正福寺の境内にあります。
イエペス URL Mail 2017年05月03日 08時15分47秒
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